第47回 清めの泉
暗い視界の中に、土の匂いが漂う。自分がどうなっているのか分からない。
考える力はあるが、意識ははっきりとはしていない様だった。そんな朦朧とする意識の中に、声が聞こえる。
「おい……じょう……か?」
大人しい感じの声。それは、間違えなくカシオの声だ。その声に、暗い視界が光の中へと解き放たれる。
歪んで見える青い空をバックに、カシオの大人しそうな顔がぼやけて映る。心配そうな表情をしているのは分かるが、まだ口を開く力は無かった。その為、すぐに瞼が閉じそうになる。
「お、おい! 確りしろって!」
今度ははっきりと聞こえるカシオの声に、ティルも僅かに表情を歪め反応する。苦しそうに唸り声を上げ、意識を確り保つ。頭部が疼く様に痛み、その痛みにティルもようやく正気に戻った。
「――イッ」
「大丈夫か? 何か苦しそうだったけど」
「うっ……お前こそ、大丈夫か? あの野郎……」
全てを思い出したティルは、右手で頭部を押さえ眉間にシワを寄せる。何があったのか分からないカシオは、心配そうにティルを見据えていた。痛みを我慢し立ち上がるティルは、先に行ったバルドの事が心配になった。あの男の目的が何なのか、まだはっきりと分からないからだ。
「行くぞ……カシオ」
「大丈夫かよ? そんな体で」
「大丈夫だ。今はバルドが心配だ。急ぐぞ」
「わ、分かったよ」
少し不満そうな表情を見せるカシオだが、渋々とティルの言う事を聞き歩き出す。フラフラの足取りのティルに、少々不安そうなカシオは、もう一度聞く。
「本当に大丈夫か? ふらついてるけど」
「大丈夫だ。それより、お前は黒いタキシードを着た男を見てないのか?」
一瞬複雑そうな表情を見せるカシオ。こんな所にタキシードを着て来る奴がいる分けないと、思ったのだろう。だが、すぐに首を傾げ答える。
「見てないぞ。第一、タキシードで山を登るか?」
当然の問いに、ティルは足を止め振り返る。その行動に、カシオも足を止めた。まだ体調が悪いのか、ティルは眩暈を起し倒れそうになる。それを踏み止まったティルは、頭を押さえながら静かに息を吐き出す。
「俺も……初めはそう思ったけどな。いたんだよ実際に」
辛そうな表情を見せるティルは、カシオに背を向け歩き出す。慌ててその後を追いかけるカシオは、「待てよ!」と叫んだが、ティルが待つ事はなかった。
静かな泉の畔に立つバルド。ここが、清めの泉だ。水面に映る周りの木々の陰が、波立つ度に大きく揺れる。その水面を真っ直ぐに見据えるバルドは、透き通る水面の中に黒い影を見た。それは、素早く水中を移動し、バルドの視界から消える。
目の色を変えるバルドは、弓をしまい空穂の中からナイフを二本取り出す。奇妙な掘り込みの入った二本のナイフの柄を合わせ、双牙へと変化させる。特に前の双牙と変った様子は見当たらない。その為、バルドは安心して双牙を構えた。
「問題は……無いな」
静かに呟くバルドは、右手に構えた双牙に左手を沿え、矢を引く様に左手を引く。すると、ナイフの刃に彫られた奇妙な掘り込みが、轟音を響かせ一瞬にして風の矢が螺旋を描き現れる。それは、前の双牙とは比べ物にならない程の強力な矢だった。矢を引くバルドの左手を弾き飛ばしそうな程の勢いだ。
「クッ!」
奥歯を食い縛るバルドは、顔を顰める。無理に制御しようとしても、それに反発する様に風が勢い良く吹き抜ける。
「グガッ!」
風に耐え切れず、バルドの左手から矢が放たれた。轟音を撒き散らし、渦巻く風が木の葉を舞い上げる。そして、水飛沫を巻き上げ泉の中へと消えた。泡が泉の中に立ちこめ、波紋が幾つも水面に広がる。バルドは勢いに押され、尻餅をつきその場に座り込んでいた。
言葉を失っているバルドに、弾けた水飛沫が雨の様に降り注いだ。その雫を浴びるバルドは、静かに双牙を見据える。桁違いの威力に驚き、左手は震えていた。
「くっそ……。あの発明王め……」
ぼやくバルドは小さく舌打ちをして、腰を上げる。降り注ぐ雫に濡れたバルドの衣服は、体にベッタリと引っ付き、気持ち悪く思う。その為、嫌な顔をしながら襟首を掴んでいた。
雫はすぐに止み、辺りは静まり返る。結局、泉の中にいたモノが何だったのか分からず、バルドは近くの木の根元に空穂と弓を置く。もちろん、右手に持っていた双牙もそこに置かれていた。
バルドは着ていた服を脱ぎ、その水気を取る為に両手で確りと絞る。すると、布に含まれていた水が、あふれ出る様に地に落ちた。ため息を吐き出すバルドは、一度絞った服を叩き着直す。
「やはり、奴の発明品など、信用するものじゃない」
一人ぼやくバルドは、木の根元に腰を下ろし泉を見据える。すると、泉の水面が大きく揺れ、波紋が中央から外に向け無数に広がる。そして、先程まで静かだった風が吹き荒れ、木々が大きくしなる。空を舞い踊る木の葉が、泉の上を渦巻いた。
それを不自然に思うバルドは、立ち上がり双牙を手に取る。左手がまだ微かに震えるが、それを気にしている暇は無かった。泉の中央の水面に、水中から何かの手が出てきたからだ。その手には水掻きがあり、人間ではないのははっきりと分かった。
無言で双牙に左手を重ねる。息を静かに吐き、精神を集中するバルドは、先程の様な事になら無い様に、左手に力を込め左手を引く。先程と同じ様に凄まじい風が螺旋を描き、バルドの左手を吹き飛ばそうとする。
「クッ! 狙いが……」
風の矢の鏃が大きく揺れ動き、狙いは定まらない。風が暴れ、双牙も真っ直ぐ構える事が出来ないのだ。顔を顰め奥歯を噛み締めるバルドは、狙いの定まらないまま、左手を風の矢に弾かれる。同時に、風の矢は放たれ、泉の中央に向って大気を貫きながら突き進む。
後方によろけるバルドは、倒れそうになるのを踏み止まり、風の矢の軌道を見据えた。泉の水面を弾き進む風の矢は、徐々に勢いを失い水面に出ている手に当る前に消滅する。
「なっ! 威力も不安定か……」
驚くバルド。それもそのはず、風の矢の威力が先程の半分程度まで落ちているからだ。一体、何がそうさせたのか、バルドには全く分からなかった。
「クックックッ……。貴様、この泉に何しに来た」
水面から顔が現れる。魚の様な顔が――。そして、先程の醜い声は、この魚の様な顔の化物の声だった。睨み付けるバルドは、身構え警戒する。
すると、また不適に笑い出す化物。まるでバルドをバカにする様だ。
「何が可笑しい!」
「クックックッ。弱いな。地護族の青年」
「俺が……弱いだと? 笑わせる。ならば、今ここで貴様に風穴を開けてくれよう」
静かにそう言うが、その言葉は殺気を帯びていた。不適な笑みを浮かべる化物は、呆れた様に首を左右に振り答える。
「自分の弱さを知らぬ様だな。ならば、その身に刻んでやろう。お前の力の無さを」
不適な笑みを浮かべる魚の化物は、静かに水面の上へと両足で立つ。体は鱗に覆われ、色鮮やかに光を放っている。そして、その手には巨大な三又の刃の槍を持っていた。その槍は、何処か不思議なオーラを漂わせていた。