第34回 甘さと弱さ
岩の砕ける音が響く。ノーリンの左手はディクシーの右頬を掠め、地面に突き刺さる。砕けた地面の破片が飛び散り、ディクシーの背中を傷付ける。表情を歪めるディクシーは、前かがみになったノーリンの腹部に蹴りを入れる。
「ぐっ!」
ディクシーの足を掴む手が緩む。その瞬間、ディクシーは翼を羽ばたかせ空に舞う。腹を押さえ上空に浮くディクシーを見据えるノーリンは、拳を握り地を蹴る。怒りで鼻筋辺りにシワを寄せるディクシーは、目を充血させノーリンに言い放つ。
「貴様! ワザとはずしたな!」
「ワシはウヌとは違う。無駄な殺生はしない」
「ふざけるな! ここで、死ね!」
勢いよくノーリンの方へと突進してくるディクシー。もう冷静さなど無く、怒りでノーリンしか見えていない様だった。
向ってくるディクシーに対し、冷静なノーリンは右拳をディクシーの左頬に当てる。突っ込んできた勢いと、拳を出した勢いがぶつかり合う。ズンと、重たい手応えを感じるノーリンは、そのまま振り下ろす。
衝撃が頬を貫き、ディクシーの体は地上に叩きつけられた。地面が砕け円形に窪み、土煙がディクシーの姿を隠す。亀裂が走った地面が露になり、ディクシーの体が地面にめり込んでいるのが見えた。瓦礫に埋もれたディクシーはピクリとも動かない。上空からディクシーを見下ろすノーリンは、拳を握り締めた。その直後、ディクシーの目が力強く開かれる。真っ赤に充血した目が、鋭く睨みを利かせ。
「来るか……」
ノーリンが呟くと同時に、ディクシーが雄叫びを上げる。
「ウオオオオオオッ!」
大気を震わせるその雄叫びは、空中に浮くノーリンの体をも震わせた。ピリピリと伝わるその凄まじいまでの殺気。砕けた地面の欠片が、カタカタと音をたて、微かに震える。
雄叫びを轟かせるディクシーの姿は徐々に変化を見せる。黒く大きな翼が、更に大きくなり刃物の様なモノが生え出てくる。足には太く丈夫な爪が長く伸び、地面に鋭く突き刺さる。口も、鋭い嘴と化し、黒光りする。
「あれが、あやつの本性と言う訳か……。魔獣人が、これほどまでの変化をするとは……」
驚きを隠せないノーリンは、背後に殺気を感じ振り返る。その瞬間、右拳に炎をまとった赤髪の男が視界に映る。その男は白い歯を見せ不適に笑ったかと思うと、炎を纏った右拳をノーリンに向って突き出す。迫り来る炎の大きさに、かわすのが不可能と悟り、ノーリンは両手を胸の前で交差させ、その拳を防ぐ。
「ぐっ!」
「中々の反応だ。だが、俺の攻撃を防いでよかったのか? 背後ががら空きだぞ?」
「!」
気付いた時には、全てが遅かった。いつしか地を飛び立ったディクシーが、ノーリンの背中に鋭い爪を突き立てる。防ぐ事も、かわす事も出来ず、鋭く長い爪がノーリンの背中に突き刺さる。鮮血が飛沫を上げ、ディクシーの黒い翼に飛び散った。
「ぐふっ!」
口角から血が漏れる。仰け反る形になるノーリンの背中に、爪を突き立てたまま地上へと急降下。鋭い爪がその勢いで更にノーリンの体へと食い込む。その度、鮮血が拭き溢れる。
「ぐうあああああっ!」
「死ねぇ!」
地面へとノーリンの体を叩きつける。地面が砕け土煙が舞う。地へと降り立つ赤髪の男は、土煙の舞う方へと体を向けて静かに呟く。
「殺すなよ。あくまで今回は挨拶程度らしいからな」
「ガゼル。何しに来た」
土煙が薄れ、大きな漆黒の翼を広げたディクシーが、鋭い眼光をガゼルに向けていた。その足の下には爪を突き立てられたままのノーリンが横たえている。体半分が地面にめり込み、動かない。服の上に血が滲み出て赤く染める。
ガゼルは腕組みをし、赤い髪を掻き揚げつまらなそうな表情で言う。
「ゼロの命令だ。逆らうと後々問題だぞ」
「チッ……。ゼロの命なら、仕方が無い……」
ノーリンを突き刺す爪がひく。体もみるみる元通りに戻り、ゆっくりとノーリンの体から足をどけた。
暴風が吹き荒れるグラスター城の屋上。咲き乱れる白龍香は、真っ白な花弁を揺らす。
その花壇の中央には、黒髪を揺らすワノールの姿があった。その足元には血に染まり、体が冷たくなったカーブンが横たえられている。もう脈は無い。すでに息絶えている。
そんなカーブンの顔を見下ろすワノールは、目を閉じ歯を食い縛る。そこに、不適な笑いを含ませたリオルドの声が響いた。
「フハハハハッ! ついにくたばったか老いぼれは! 俺がここまで来る必要も無かったな」
「ふざけるな……。貴様の息の根をここで絶ってやる」
「はぁ? 何、ふざけた事言ってんだ? てめぇ」
怒りの篭った声でそう言うリオルドは、背中に背負った大剣の柄を握り締める。武器も持たないワノールは左目で鋭くリオルドを睨んだまま何も言わない。その目には何か決意の様なモノが窺えたが、リオルドはそんな事全く気にはしない。
「てめぇも、あの世に行きたいみたいだな」
「お前も道連れにしてやる」
「武器も持たない貴様に、俺を道連れにする事など出来るのか?」
「やってやるさ。武器なしでもお前を道連れに!」
拳を力強く握り締め、戦闘態勢に入るワノール。睨みをきかせるワノールとリオルドは、互いに間合いを取り、相手の出方を窺う。背に背負った重々しい大剣を構えるリオルドは、不気味な笑みを口元に浮かべる。そして、静かに口を開く。
「この一振りで俺は貴様を真っ二つに切り裂く。何か言い残す事は無いか?」
「ここで死ぬのは俺じゃない。お前だ」
「その様子だと、言い残す事は無い様だな!」
大声でそう叫ぶリオルドは、力を込め大剣を振りぬく。青いリオルドの髪が、その勢いで微かに靡き、上半身が下半身に遅れて力強く捻られる。それから更に遅れて、右手に握った大剣が風を切り裂きワノールに向う。
迫り来る刃に、意識を集中させるワノールは、体を後方に仰け反らし、紙一重で刃を交わす。鼻先を通過する大剣の切っ先は、微かにワノールの鼻先を掠めたのか、鮮血が僅かに舞う。顔を顰めるワノールは、後ろに引いた左足で力強く地を踏みしめ、仰け反った上半身を起き上がらせる。
大剣を振り抜いたリオルドの体は、無防備になっていた。その隙をワノールは逃さず、すぐに地を蹴る。瞬時に体勢を立て直そうとするリオルドだが、重々しい大剣を持つ為、動きが遅れる。
「がら空きだ!」
「くそが! 調子に乗るな!」
右脇腹に左拳を力いっぱい振り抜くワノールだが、その拳はリオルドには届かなかった。
「ぐふっ!」
「甘かったな。腕は使えずとも、足は使えるんだ」
「ぐっ……」
ワノールの腹部にはリオルドの右足が突き刺さっていた。ワノールの膝は力なく地に落ちる。それから遅れて両手を地に着き、吐血する。体に自由が利かず、動く事が出来ない。
そんなワノールを見下すリオルドは、不適に笑みを浮かべると大剣を振り上げ叫ぶ。
「貴様の命もこれまでだ!」
鋭く振り下ろされた刃は、ピタリと動きを止める。その手応えにリオルドは眼差しを鋭くさせ、目の前の人物を睨む。その視線の先にはリオルドの振り下ろした剣の刃を人差し指と親指で受け止めたゼロの姿があった。
全く剣を動かす事が出来ないリオルド。それは、ゼロの力の強さを明らかとしていた。歯を食い縛り柄を握る手を震わせるリオルドに対し、ゼロはニコヤカな笑みを見せる。
「剣を引け」
「止めるな! 今ここでこいつを殺す」
「聞いてなかったのか? 剣を引け」
「ふざけるな! いくら――」
「引け!」
リオルドが言い切る前にゼロの怒声が響く。その威圧感にリオルドの体は硬直する。指一つ動かせず剣を握る手が緩む。ゼロはそのまま剣を奪うと、そのまま地面に突き刺す。澄んだ音が響き、突き刺さった剣が微かに震えた。
「俺達にはまだやる事がある。今日はここで退く。良いな」
「あ……ああ。わかった」
「行くぞ!」
ゼロはそう言い剣を抜きリオルドに渡す。それを受け取ったリオルドは、剣をしまいゆっくりとワノールに背を向ける。そして、静かに口を開く。
「運が良かったな。その命、次に会う時まで預けておく。せいぜい、俺に会わない様に逃げ回れ」
それだけ言い残し、リオルドはゼロと共にその場を後にした。