第32回 死に逝く命
壁には鋭い刃物で切りつけられた痕が無数残る。
床には刃の折れた剣の柄だけが散らばり、切っ先部分は壁や天井に突き刺さって残っている。
血痕が幾つか赤絨毯の上に滴れていたが、それに気付く者は居ない。
王座の前には既にカーブンの姿は無く、殺気を漂わせるリオルドの姿だけがある。両膝に両肘を乗せ手を組み合わせ、顔を伏せるリオルド。ピクリとも動かず、ジッとしているリオルドは、静かに顔を上げると、不適に笑い出す。
既に、ワノールの姿も、カーブンの姿も無いその部屋に、不適なリオルドの笑い声だけが響く。そして、その声は廊下まで伝わっていた。
「グハハハハッ! 逃げ惑え! 弱者共! 俺をもっと楽しませろ!」
廊下に響くその声に、ワノールは足を止める。そんなワノールの右肩に支えられているカーブンは、左肩から右脇腹に掛けて酷く切り裂かれ、血だけが服の切れ目から溢れ出ている。傷は深く、血は止まらない。幾らルナでも、きっとこの傷を治す事は出来ないだろう。
もちろん、ワノールもその事を悟っていた。だが、諦めることが出来ず、何とかルナの所へと連れて行こうと、リオルドから逃げ出したのだ。
「グウッ……。ワノール殿……。頼みが……ある」
弱々しいカーブンの声に、ワノールは何も言わず耳を貸す。
「ワシは……グフッ! もう、長くない……。頼む……。屋上の……白龍香の、グフッ! 所へ……」
「屋上だな。わかった。もう、それ以上喋るな」
「すまんな……。あそこは……ワシと……妻の……思い出の場所でな――グフッ!」
吐血するカーブンに、「喋るな!」と、ワノールは叫ぶが、カーブンは弱々しい口調で言葉を繋げる。
「妻は……白龍香に……囲われ……息を引き取った……。あの……真っ白な花びらが――グフッ! グフッ! 妻の血で……赤く染まる――ガハッ!」
大量の血が口から吐き出される。既に、カーブンの体力と気力は限界だった。ワノールもそれを知っていた。だが、カーブンの言葉を止める事を出来ない。何故か、聞かなくてはいけない気がしたのだ。
「赤く染まった……白龍香は……、いつしか元の――グフッグフッ。白い白龍香へと……変わっていた……。じゃが、一輪だけ……たった一輪だけ……グフッ、ウッ!」
急にカーブンが胸を押さえ苦しみだす。流石にこれ以上話せば、屋上まで辿り着く前に息絶えてしまうと、ワノールは悟った。その為、歩みを少し早めた。
声を出す力も無くなったのか、カーブンが急に喋らなくなった。だが、微かに呼吸をするのが聞える。その為、まだ息がある事が分かった。
「大丈夫だ。すぐに屋上に着く。それまで、死ぬな」
ワノールはそう声を掛けるが、反応は無い。それでも、ワノールは声を掛け続ける。だが、カーブンの息は徐々に弱まり、次第に体も冷たく変わる。何より、血の色が黒ずみつつあった。
一歩一歩と前進するワノールは、ようやく屋上へと続く階段の前に辿り着く。すでに虫の息で、今にも息絶えそうなカーブンの方に視線を送る。口元には吐き出した血の痕が残り、顔のアチコチに血痕が残る。どれも凝血し既に赤黒い塊になっていた。
ワノールが動きを止めたのに、気付いたのかカーブンが静かに口を開く。
「――すまんのぅ」
弱々しいその口調に、ワノールは力強く言う。
「国王が、兵士に謝る事は無い。国王たる者、常に堂々とするものだ」
「そうかのぅ……」
掠れた声。その声はもうワノールの耳にも微かにしか聞えない程の声だ。そんな弱々しいカーブンの声に、ワノールは静かに笑みを浮かべて答える。
「ああ。そうだ。あんた程の国王はもっと堂々としなければな」
「ワシは……十分、堂々としておるつもりじゃがな……」
カーブンが微かに口元に笑みを浮かべる。だが、その笑みもすぐに険しい表情へと変わる。顔色も悪い。瞼も殆ど閉じかけ、体も冷たい。だから、ワノールは急いで階段を上り始めた。慎重に一歩一歩。
螺旋状に伸びる長い階段をゆっくりと上るワノールは、右肩に担ぐカーブンを気にしつつ背後から迫る殺気にあせりを見せる。確実に奴が迫ってきていた。時折、背後から聞こえる不気味な笑い声が、徐々に大きくなっているのがその証だ。
「くっそ。あの化物……。追いかけてくるか」
「――ぐふっ。ワシを置いていってくれ……」
「な、何を……」
そこまで言いかけたワノールは、カーブンの顔を見て言葉を呑む。それは、カーブンが今にも息絶えそうだったからだ。先程まで微かに感じていた覇気は感じられず、瞼も殆ど塞ぎかかっていた。
「おい! しっかりしろ! 目を開けろ!」
「わ……しは、長く……生き過ぎた……。ここらが……潮時じゃ……。例え……白龍香が……見れずとも……満足じゃ。後は、君達の時代だ……。この世界を……ウッ!」
息を引きとった。屋上へたどり着く前に。大量に血を流したためだ。どちらにせよ、あの傷では屋上に行けるとは、思えなかった。わかっていた事だったが、悔しかった。カーブンの頼みを聞く事が出来なかった自分が、非力だと感じた。
握った拳は微かに震え、その手の平からは血が滲み出て、指の間から点々と滴れる。歯を食い縛り、怒りを堪える。そして、静かにカーブンの体を持ち上げ、残りの階段を上り始めた。何も言わず、ただ黙って一段一段。
リオルドの不気味な笑い声が、後方から聞こえてくる。だが、ワノールは止まる事なく階段を上り続けた。
「東西南北の守備砦前で行われている戦闘が、そろそろ終幕を迎えそうだがどうする?」
太い木の枝にしっかりと両足で立つヴォルガは、腕を組み静かにレイストビルの方角を見据えながらつぶやく。黒髪がユラユラ揺れ、木の葉がザワメク。その音に混ざり、ゼロの含み笑いが聞こえる。
「フフフフッ。最悪の終幕を迎えそうだな。俺達の軍は」
「どう言う事だ?」
「ジャガラも、ディクシーも、レイバーストも、相手を軽んじてる。あれじゃあ、勝てる相手にも勝てない。それに、奴らの力が跳ね上がっている。獣化もしないで勝てる相手じゃないな」
落ち着いた口調のゼロは、両足を宙にブラブラさせながら木の枝に座り込んでいる。全く仲間を助けに行くつもりは無さそうだ。
「今、あの三人を失うと、かなり戦力が落ちるが、良いのか?」
「それは、困るな。これ以上、戦力が落ちるのは……」
「これ以上? と、言う事は……。他に戦力が落ちる事があったのか?」
「ああ。少しばかりもめてな」
ゼロはそう言い苦笑する。そんなゼロの表情にヴォルガは、ハッとする。嫌な予感と、言うよりも何と無く予期していた。心のどこか奥底で、いつかはこうなると。
「まさか、フォルトが抜けたのか!」
「リリアと一緒にな」
「しかし、今あの二人に抜けられるのは!」
「しょうがないさ。あいつは俺に逆らった。それに……」
一瞬、ゼロの表情が曇る。なにやらもの寂しげな顔のゼロだが、すぐに笑みを浮かべ立ち上がった。と、同時に木の葉を揺らしていた風が収まり、静まり返る。黒髪の合間から見えるゼロの瞳は、鋭くぎらついている。
「さて、行こうか。目的は果たした。これ以上、ここで暴れる必要はない。特に、リオルドは早めに止めないと、取り返しのつかない事をしでかしそうだ」
「なら、ゼロはリオルドの所に行くといい。とりあえず、俺はジャガラの方へ行く。一番危険なのは、多分あっちだ。それに、俺が行く方が良いだろう」
「そう。それじゃあ、ガゼルはディクシーの方へ、クローゼルはレイバーストの方へ行ってくれ」
ゼロはそう言い、枝に立ったまま真下を見下ろす。そこには、真っ赤な髪のガゼルと、クネクネとした長身のクローゼルの姿があった。相変わらず、鋭い目付きのガゼルは、ゼロの方を睨み付け、「ふん」と、馬鹿にした様に笑い言い放つ。
「ふざけろ。俺の目的はあいつを殺す事だ。あいつ以外とは戦う気は無い」
そう言い残し、立ち去ろうと右足を踏み出したその瞬間、背後に冷たく凍りつくような殺気を感じ、それ以上足が前に進まなくなった。その殺気に瞳孔が開き、背筋には大量の冷や汗があふれ出る。体が動かず、息が出来ない。まるで、この空間が凍り付いてしまったかの様に。
「うくっ……。がっ……」
「俺に逆らうな。俺の命は絶対だ。それとも、俺と遣り合って死にたいか」
「ゼロ。やめろ。これ以上、仲間を減らしてどうする」
ヴォルガのその一言で、ゼロはわれに返る。目を閉じ眉間にシワを寄せた。ようやく、その殺気から解き放たれ、ガゼルは息を大きく吸い込んだ。