第30回 体格差
瓦礫と化した壁。
その瓦礫の下に埋もれる兵士は、既に生きたえ動かない。
壊れた壁から中に流れ込む風が、微かな埃を舞い上げ静かに消えた。
砦の出入口の前に立つ小柄なウィンス。そして、二十メートル先に立つ大柄な男レイバースト。その背丈は優に二メートルを越え、腕も脚もウィンスの何倍もの太さ。頭に髪など無く、血管が軽く浮き出ていた。
「誰だ! お前!」
「……」
返事は無く、額に開いた不気味な真っ赤な瞳がウィンスを見る。牙狼丸の柄を右手で握るウィンスは、右足を引き身を屈める。そして、いつでも牙狼丸が抜ける様に、左手で鞘の上を握り親指を鍔に掛ける。
ウィンスは、自分の胸の鼓動が体中に響くのを感じた。それは、今までに無いほど早く脈打ち、額から流れる汗は尋常ではない。
ポタリ…ポタリ……。静かに滴れる汗は、乾いた地面に落ちすぐに消えた。緊迫した空気に、溜らずウィンスが地を駆ける。だが、その手に牙狼丸は握られておらず、鞘に入ったまま腰にぶら下がっていた。
「風よ! 集まれ!」
右手を広げ後ろに引く。その手の平に風が微かに渦巻く。
「くらえ!」
そう叫びながら、レイバーストに腹目掛けて右手を突き出す。右手に集まった風と共に、レイバーストの腹を捉える。渦巻く風はウィンスの右手に押され、レイバーストの腹に食い込む。その手応えをウィンスも手の平に感じていたが、レイバーストの体はピクリとも動かない。それどころか、ウィンスの体が渦巻いた風に弾き返された。
「のわっ!」
地面を転げたウィンスの体は、土煙を舞い上げ静かに動きを止める。右腕がヒシヒシと痛むウィンスは、左手で右腕を押さえながら体を起こす。
「グッ……。今、確かに手応えを感じたのに……」
表情を引き攣らせるウィンスに、目を向けるレイバーストはここで初めて口を開いた。
「風牙族。風を圧縮しそれを拳と共に敵にぶつける。だが、それは、私には通じない」
「何だと! なら、これならどうだ!」
足の裏に風を集めたウィンスは、力強く地を蹴る。ウィンスの姿が消え、後塵だけがレイバーストに迫った。だが、顔色一つ変えないレイバーストは、静かに息を吐き額の目だけを見開く。その真っ赤な瞳にははっきりと捕捉されていた。渦巻く風を右拳に集めるウィンスの姿が。
「無駄な事を……」
誰にも聞えない程小さな声で呟くレイバーストは、両拳を脇腹の位置に構える。その行動を駆けながら見ていたウィンスだが、そんな事関係ないと、右手を上半身を捻りながら後ろに引き、勢いよくレイバーストの腹に向って突き出す。鈍い音と共に衝撃が広がり、二人のたつ地面が砕け微かに陥没し、風は微量の砂塵を舞い上がらせる。
「グウッ……」
崩れ落ちるウィンスは、左手で右腕を押さえた。先程よりも強い衝撃が右腕を襲ったのだ。拳からは薄らと血が滲んでおり、震えが止まらない。
腕を押さえるウィンスを見下ろすレイバーストは、静かに右手でウィンスの頭を掴み、軽々と体を持ち上げる。
「ウグッ…ぐああっ!」
「私の体に拳は通じない。そして、風は私の体に弾かれ、勢いそのままにお前の体を蝕む」
頭を強く握られ、割れる様な痛みを伴うウィンスには、レイバーストの言葉を理解する事が出来ない。
ただ、分かるのは頭蓋骨が軋むのだけ。そんなウィンスの頭を掴むレイバーストは、地面にその小さな体を投げ捨てる。
地面を転げ、小さく蹲るウィンスは、右腕を押さえたまま苦痛に声を震わせる。
「うっ……ううっ……」
「その腰の刀を、何故抜かない。それとも、それは飾りなのか?」
「だ……黙れ……。お前など、牙狼丸を使わなくても……」
痛みに表情を歪めながらも、力強くそう言い放つウィンスは牙狼丸を、鞘から抜こうとはしない。いや、実際は抜く事が出来なかった。抜こうとすると、手が震え力が入らなくなるのだ。
それを、レイバーストに悟られぬ様に振舞うウィンスは、痛む体に鞭を打ち静かに立ち上がる。だが、その足は既に限界に達しており、膝が震え力が入らない。立っているのがやっとと言う感じだった。
「拳は通じないと身を持って分かったと思ったが……。あまり、学習していないようだ」
「黙れ……。お前に……見せてやる……」
険しい表情を見せるウィンスは、目を閉じ全身に風を集める。今まで微風だった風が、吸い寄せられる様にウィンスの周りに集まり始めた。それは、渦状にウィンスの体を取り巻き、砂塵がウィンスの姿を隠す様に舞い上がる。
表情一つ変えないレイバーストは、軽く足を屈伸させると、力強く地面を蹴る。その地面を蹴る衝撃から地面に亀裂が走っており、くっきりとレイバーストの蹴った跡が残っていた。だが、それ以降地面を蹴った跡が無い。それもそのはず、レイバーストは走ったのでは無く、宙に舞ったのだ。
宙を舞う巨体。それは、放物線を描きながら確実にウィンスに向っていく。
もちろん、ウィンスはこの事に気付いていない。目を閉じて風を集めているのだから。ウィンスがこの事に気付いたのは、体を取り巻く風がレイバーストの体に触れた時だった。
「なっ!」
「もう、遅い!」
逃げる事など出来なかった。あの巨体が重力に引っ張られ勢いよく落ちてきたのだ。そのスピードをかわすなど容易に出来るものではない。
小柄のウィンスの両肩に体重を全て乗せるレイバースト。その衝撃がウィンスの両肩を貫き、後方へと体が傾く。『倒れる!』と、思った時には視界が一転し、ウィンスの体はレイバーストの全体重を支えたまま背中から地面に叩きつけられた。
「ガハッ!」
地面が砕ける音と同時に、激しく吐血するウィンス。その血は宙を舞い、ウィンスの体に降り注ぐ。
衝撃が背中から頭へと突き抜ける様に襲い掛かり、意識が吹っ飛んだ。それと同時に、ウィンスの体を取り巻いていた風は、一瞬で消えた。
微かにひび割れた地面に、上半身が少々埋もれるウィンス。その両肩にはレイバーストの大きな足が堂々と立ち、ウィンスの顔を見下す。微かに目が開いている様だが、もう意識が無い。
「この程度とは……。全く、歯ごたえが無い」
ぼそりと呟くレイバーストは、静かにウィンスの体から足を下ろす。割れた地面の破片を踏み潰すレイバーストは、そのまま数歩進んでグラスター城を見据える。
微かに意識を取り戻すウィンス。頭の中はぼんやりとしていて、指先の感覚が無い。動いてはいる様だが、全く感覚を感じないため、少し妙な感じがする。それに、体に走っていた激痛が、ピタリとやんだ。感じるのは、風の感覚だけ。まるで、夢の様な感覚だった。
静かに立ち上がるウィンス。体を取り巻く風は、辺りの細かな石粒を舞い上げる。砕けた地面の破片すら、その風にカタカタと揺れ、今にも風に飲み込まれそうになっていた。渦状にウィンスを取り巻く風は、次第にその激しさを増し、轟々とした音を辺りに轟かす。
「懲りないようだな。風は、お前の体を蝕むのだぞ?」
ゆっくり振り返るレイバーストは、呆れた様子でウィンスを見た。だが、先ほどとは明らかに違う風の勇ましさ。そして、ウィンスの胸の中心で輝く黄緑色の水晶。それは、風魔の玉だった。
その玉は煌びやかに輝き、まるで風を引き寄せている様で、ウィンスの体を取り巻く風は一層強まる。
額の目を見開くレイバーストに、黄緑色に輝く玉が光り声が響く。
「静かなる風は、わが身を包み。荒々しい風が、貴様を喰らう。風は刃と化し、わが身を如何なる障害からも守りつくす!」
「その玉は、まさか、風魔の玉か……」
目を細めるレイバーストに対し、ウィンスは腰の牙狼丸を素早く抜き横一線に一振りした。