第176回 歯車
銀狼の手から投げ出され、空中を舞う風魔の玉。
それを、見事にキャッチしたウィンスはその視線をティルの方へと向けた。未だ視点がブレ、横たわるティルに、ウィンスは体勢を整え叫ぶ。
「ティール!」
だが、ティルの視点は揺らいだままで、天井を見据え動かない。跳躍し宙を舞っていたウィンスは、そんなティルの姿に小さく舌打ちをし、表情を歪めた。体が落下し始めていたからだ。
右腕に噛み付いた銀色の毛を揺らす狼を払い除けた銀狼は、その視線を上げ落ち始めたウィンスを見据えた。二人の視線が交錯し、銀狼は口元に笑みを浮かべると空気を吸い込む。
咆哮を放つ気なのだと、周囲の誰もが思った。だが、突如として銀狼の体の中で弾けた鼓動。それが、銀狼の動きを止め、やがて放たれる。その口から――
「いつまで寝てんだ! ティル!」
と、言うフォンの声が。その声に、皆が驚き硬直するなかで、ただ一人ティルだけがゆっくりと動き出す。視点は確りとし、手に持った天翔姫の切っ先を地面に突き立て、静かにゆっくりと体を起こしたティルは、小さく息を吐くと、顔を上げる。
「てめぇこそ……やっと起きたのか?」
「はは……悪いなぁ……ちょっと、暴そ……うぐっ……」
額から汗を流すフォンの表情が歪むと、すぐに銀狼の声がその場に響き渡った。
「ふざけるな……な、何故、我の支配を……」
奥歯を噛み締め、そう呟いた銀狼は眉間にシワを寄せ、視線をあの銀色の毛をした狼へと向けた。
「そうか……奴が……ぐっ!」
「そうだ……」
銀狼が苦痛に表情を歪めると、今度はフォンの声が静かにそう告げ、不敵に笑う。
「アイツは……お前の細胞から作られた……正真正銘の銀狼だ……。そして、アイツの力は、制御……だから、オイラは……ぐうっ……」
また、フォンが表情を歪め、銀狼によって体が支配される。荒い呼吸を繰り返し、目の前に佇むティルを睨む。その赤い瞳をジッと見据えるティルは、左手をスッと上げ、視線をウィンスの方へと向けた。
「ウィンス!」
「ああ。受け取れ!」
ウィンスは風魔の玉を投げると同時に地面へと落ち、激しい土煙を舞い上げ、ティルはウィンスが投げた風魔の玉を左手でキャッチすると、天翔姫をボックスへと戻した。その最中、銀狼は動かなかった。いや、正確には動く事が出来なかった。暴走し、完全に銀狼の支配下にあったフォンの体だったが、フォン自身が目覚め、その制御から逃れようと反発し、銀狼が体を自由に動かせなくなっていたのだ。
それでも、意識、感覚、その風貌は銀狼のままで、未だにその肉体は銀狼の優位な状況にあった。
「くっ……ふざけたマネを……」
「カイン! バルド!」
「はい! ティルさん!」
「受け取れ!」
ティルがカイン・バルドの順に視線を送ると、カインは手に持った筒状になった渦浪尖を、バルドは双牙をティルの方へと放った。まず、カインの投げた筒状になった渦浪尖を受け取り右脇に抱え、放物線を描き回転する双牙を続けてキャッチする。
これで、全てが揃った。銀狼を倒す為の全ての材料が。呼吸を僅かに乱すティルは、俯き天翔姫・風魔の玉・渦浪尖・双牙の順に見据えると、小さく息を吐く。
「コレで……良いんだろ……」
「ああ……。構わない。約束……だろ? ティル」
静かに呟いたティルの声に答えたのは、フォンだった。表情を歪めながらもティルへと笑みを向けるフォン。その表情に、ティルは「ああ。約束だったな」と、呟き、唇を噛み締める。唇が切れ、血があふれ出す。コレしか方法が無いんだと、自分に言い聞かせ、ティルは両手でボックスとなった天翔姫を開いた。
ポカリと空いたボックスの中央に、風魔の玉を置くとその玉は美しく光を放ち、ボックスを閉じるまでその光は周囲を照らした。機械の様な音を奏でボックスが閉じられると、続いて、双牙を二本のナイフに戻し、ボックスの上下にそれぞれを差し込む。何かの機械の様に煙を吹きながらその形を変貌させていく天翔姫。ボックス型だったその形は、いつしか長方形になりその中心には穴が開く。握りやすい様にグリップまでが作られ、完全に弓の様な形になっていた。
双牙を上下に組み合わせるとこうなる様に設定されていたのだろう。双牙の刃が瑠璃色に輝き、そこから微量だが静かに風が流れ込む音が聞こえた。刃に刻まれた彫がそうさせたのだろう。その音色を聞きながら、グリップを左手に握るティルは、静かに息を吐く。
脇に抱えた筒状の渦浪尖を右手に持ち、その筒のボタンを一つ押す。筒は飛び出し柄となり、その先から鋭い刃を突き出すと、ティルはそれをゆっくりとボックスの中央に空いた穴へと刺しこみ、矢を引くようにゆっくりと右手で渦浪尖を引いた。
重々しい手応え。引く度に弓を持つ手に感じる歯車が一つ一つ動き出す感覚。ゆっくりと、ゆっくりとボックスの中へと収まった風魔の玉の力を引き出す様に、風が渦浪尖へとまとわりつく。
「うぐっ……ぐぐっ……」
まだ半分も引いていないのに、ティルの手が震えた。渦浪尖にまとわりつく風が、双牙が取り込む風が、あまりにも膨大で、ボロボロのティルの体の方がその力に耐え切れそうになかった。筋肉が悲鳴を上げる様に腕から血が溢れ出す。
「クッ……クククッ……。ダメージを受けすぎたな……折角、集まったと言うのに、この俺を貴様らは殺す事は出来ない!」
銀狼が叫ぶ。気付いたのだ。いつまでも矢を引けないティルの様子で。もうティルが限界なのだと。そして、確信する。もう自分を殺せるモノはいないと。自分の中にいるフォンの力が弱まり、銀狼の右足がゆっくりと地面から離れ、ティルの方へと一歩踏み出す。
「ぐっ……ふざ……ける……な……」
ティルは奥歯を噛み締め、最後の力を振り絞り腕を引く。それでも、動く事の無い渦浪尖。暴風がティルの腕を振り払う様に弓を暴れさせる。
「ぐっ……だめ……なのか……」
「諦めるな」
「そうだ!」
「お主が、交わした約束じゃろ」
カシオの声に続き、ウィンス、ノーリンがそう告げ、カシオとウィンスは弓を押さえ、ノーリンは渦浪尖を確りを握り締めた。
「お前ら……」
「狙いは、俺とカシオでつける。だから、確りと引け! 最後まで!」
「引くのは手伝う。じゃが、放つのはお主じゃ」
「ああ……ありがとう……」
ティルが礼を言う。小さな声で。風の所為でそれは誰にも聞こえなかったが、それでも皆に伝わった。
「くくっ……もうすぐ……この体も自由になる……」
銀狼が一歩、また一歩とティルの方へと歩みを進める。その視線の先を一本の矢が通り過ぎ、目の前に立ちはだかる。赤い髪を揺らすカインと、鱗模様を肌に露出するフレイストの二人が。
「悪いけど、先には行かせないし、もう、お前を自由にはさせない」
「私達の友の肉体は返していただきます」
「ぐぅっ……死に底無い共が……」
奥歯を噛み締め、鼻筋にシワを寄せる銀狼が、喉を鳴らせる。獣の様に。
赤く迸る青天暁を構えるカインと、右手に龍の爪を形成するフレイスト。二人の視線が真っ直ぐに銀狼へと向けられ、銀狼の視線もまた、二人へと真っ直ぐに向けられた。視線が交錯し、互いの動きを警戒する様に三人の動きはピタリと止まる。その場に流れる風の音。そして、一つ、また一つと動き出す歯車の小さな音が刻々と時を刻む。この戦いの終幕を伝える為に。