第170回 歌の終わり
額から流れる血が眼に入り、赤く染まったカシオの瞳。
発動される水呼族であるカシオの力。
全ての光景が鮮明に映り、降り注ぐ砕石の形もハッキリと見える程動きは遅く見える。それは、銀狼の動きも例外では無い。呼吸の仕方、瞬きの瞬間、動き出そうとする時の筋肉の動き、全てがカシオには見えていた。
だが、それはただ見えるだけ。見えるだけでその動きについていける程、カシオは俊敏ではない。その為、カシオは焦っていた。
「我の動きについてこれるかな?」
「…………」
銀狼の言葉にカシオは息を呑む。銀狼の右足に体重が掛かるのが分かり、カシオは身構える。その行動に遅れ、銀狼の右足が床を蹴る。その瞬間に床は砕け砕石が舞う。その砕石すらもその眼にハッキリと映しながら、カシオは奥歯を噛み締め渦浪尖を僅かに退く。いつでも突きが見舞える様に。
迫り来る銀狼の動き、それは常人の動きよりも早く、スローに映るカシオの眼でさえ歩いている程のスピードに映る程度だった。
「くっ!」
奥歯を噛み締め、渦浪尖を突き出す。水中で無い為、僅かにカシオの動きも鈍い。突き出された渦浪尖の刃は空を切る。かわされたのだ。体を捻り、渦浪尖に体を沿わせる様に回転し、懐へと入り込まれる。と、同時に放たれる。重々しいその右拳を、腹部へと。
「ぐふっ!」
体を襲う激しい痛み。腹部から背中へと打ち抜かれる様に衝撃が走り、カシオの体はくの字に折れ、口からは大量の血が吐き出された。銀狼はすぐに距離を取った為、その血は床へと散った。
よろめき後方へと二・三歩下がると腹部を左手で押さえ、左膝を床へと落とした。
「がはっ! がはっ!」
咳き込み吐血するカシオは、そのまま渦浪尖を床へと突き体を支える。呼吸を乱し苦しそうに左目を閉じ、片目で銀狼の姿を見据えた。口元から漏れた血を左手で拭い、大きく肩を揺らす。
銀狼と対峙して僅か数十秒。たった一発、拳を受けただけで、カシオは膝に力を入れる事が出来なくなっていた。
(くっ……次元が違い過ぎる。魔獣人とか、そんなレベルじゃねぇ……)
未だに内側から激しい痛みを感じながら、カシオは表情を歪める。ほんの僅かな時間稼ぎが出来れば上出来だと考えていたが、全く時間稼ぎにすらならなかった。ティルやフレイストが回復すれば――。皆で掛かれば――。そんな淡い期待さえも今の一撃で全て破壊された。
膝を着いたまま俯く。大きく上下する肩が次第に落ち着く。深い蒼の髪が僅かに揺れる。首から掛けていたはずの割れたゴーグルも、すでに原形はとどめてはいなかった。
「はっ……はっ……」
「…………」
沈黙を守る銀狼。それが、カシオは不思議だった。先程までの戦いを知っているから、すぐに止めを刺しに来ると思っていたからだ。余裕があるからなのか、それとももっと別の何か理由があるからなのか、銀狼は距離を取ったまま動こうとしなかった。
時を同じくして、飛行艇内部。
澄んだ綺麗なリリアの声は掠れ弱々しくその歌を紡ぐ。時折咳き込み吐血を繰り返しながらも、歌う事をやめない。
輝きを失い今にも消えてしまいそうな光の翼。そんな彼女を見つめる一同。いや、見つめる事しか出来なかった。何も出来ずただ見つめる事しか。
(もう……すぐ……フォルト様……ゼロ様……)
リリアの閉じた瞼の合間から一筋の涙がこぼれ、血に染まった手に雫が落ちた。リリアは分かっていたのだ。もうこの歌が終わる事を。そして、自分の命もそこで尽きる事も。だから、涙が自然と零れ落ちた。
掠れ弱々しくも美しい歌声に、ミーファは人知れず涙を流した。時見族として、この未来を見た事があった為、リリアがこの後どうなるか分かっていた。だからこそ流した涙だった。
やがて声は途切れ、ルナの胸の上に置かれた手の輝きが一層強まると、周囲を眩く包み込んだ。
(フォルト様……私もそちらに……)
リリアの意識がプツリと途切れ、その背中に浮かんでいた光り輝く翼が眩い光りの中で弾けた。それと同時にリリアの体は糸が切られた人形の様にルナの体に覆いかぶさる。赤く染まったその肌をルナの体へとあわせた。
途切れ途切れで聞こえていた美しい歌声も、眩い光りも消え、静寂が周囲を包んだ。静まり返ったその中で、リリアの右手首で揺れていた銀色のブレスレットが小さな音をたてて砕けた。その瞬間、薄らとリリアの体を光りが包む。
「な、何?」
セフィーが声を上げる。その声に、ミーファもウールもワノールも眼を見張る。リリアの傷だらけだった体が、その光りによって癒されていく。その光景にミーファは息を呑む。こんな未来は予知していなかった。それに、あのブレスレットもミーファの見た未来とは違っていた。
「ど、どうして……」
見据える。変わってしまった未来を。何が起こっているのか、ミーファには理解出来なかった。
リリアにフォンが預けたブレスレット。それは、能力を抑え吸収する。リリアの癒しの歌の力。それは強大な力だった。その力をこのブレスレットは抑え吸収していた。それが、砕けたと同時に解かれたのだ。
微量な力だが、それでも傷つき消えかけた一つの灯火に力を与えた。ルナの体に身を横たえるリリアの肩が弱々しく動く。息を吹き返したのだ。しかし、それでも肉体に刻まれた傷は酷く、今にも息絶えそうだった。
「ウール! あの娘を!」
「はいっ!」
ワノールの体を支えていたウールは、ワノールの言葉ですぐにリリアの元へと駆け寄る。それに遅れ、セフィーもリリアへと駆け寄った。
「脈が弱いわ」
「どうするつもり? こんなに酷い傷、私たちじゃどうにも出来ない……」
ルナの体に横たわっていたリリアを床へと仰向けに寝かせ、傷を見据える。ここに来た皆の傷をその小さな体で受け止め、ルナの失われた命を蘇生したリリアの体。どれも重症で医療の知識のないウールとセフィーの二人ではどうする事も出来なかった。
「ど、どうしましょう?」
「ど、ど、どうしましょうって……」
「とりあえず、包帯と止血剤を!」
ミーファが叫ぶと、ウールとセフィーは慌てて立ち上がる。
「そ、そうね!」
「ま、まずは……」
「救急箱がその倒れた棚の中にあるはずだ」
慌てる二人に対し、機材を修復するブラストが声を上げる。ミーファはリリアへと駆け寄り、傷を見据える。ミーファにも医療の知識は無かった。それでも、リリアを助けたい。その気持ちだけでその場に座り傷を確認する。
「酷い状態……」
「はいっ! 救急箱!」
セフィーが棚を支え、そこから救急箱を取ったウールがミーファへとそれを渡した。
「どう? 何とかなりそう?」
棚を戻し、ミーファの所へと戻ってきたセフィーがそう尋ねる。唇を噛み締めるミーファはその声に首を左右に振った。
「ダメ……傷が酷すぎる。それに、血が足りない……」
「そんな……」
「じゃあ、この娘はどうなるの?」
ウールの言葉に、ミーファは拳を握り首をもう一度振った。何も出来ない自分が不甲斐なく、そんな状況が悔しかった。自分がもっと医学を知っていたら、ルナの様に癒天族だったら。そう思い強く拳を握る。爪が食い込み、血があふれ出す。この痛みの何十倍、何百倍もの激痛をリリアは感じているのに、何も出来ない事にミーファは涙を零した。
「泣くのは……まだ……ですよ」
途切れ途切れのかすれた声が、ミーファ・ウール・セフィーの背後から聞こえる。ミーファは振り返り、目を見開く。
「る、ルナ!」
「うぅっ……ま、まだ……出来る事が……」
ゆっくりと体を起き上がらせるルナは、その体に走る激痛に表情を歪める。そんなルナへと駆け寄ったセフィーは肩に腕を回し体を支えた。呼吸を乱すルナは、そんなセフィーに小声で「ありがとうございます」と、告げ、足を引き摺りながらリリアの横へと移動し座り込んだ。
「ガーゼを当てて止血剤を掛けてください。それから、包帯をきつく巻いてください」
「分かったわ」
ルナの指示に従い、ミーファとウールはガーゼを傷口に宛がい包帯をきつく巻いた。そして、ルナは大きく息を吸い瞼を閉じると、リリアの胸に右手を当てた。
「ちょ、ちょっとルナ! も、もしかして、力を使う気じゃないでしょうね! そ、そんな事したらルナが!」
ミーファが慌ててそう怒鳴ると、ルナは目を開き強い眼差しをミーファへと向けた。
「私を信じて……」
いつになく強い口調に、ミーファは拳を握り奥歯を噛み締める。
「分かった……ルナを信じる……」
「ありがとう。ミーファ」
呟きルナはもう一度瞼を閉じると、リリアの胸に置いた右手に力を込めた。薄らと輝く光が、リリアの体へと流れ込む。ルナも体はボロボロだった。それでも、リリアの傷を少しでも癒せればと、願い力を使う。
弱々しく輝き、ルナの表情は苦痛に歪む。呼吸が乱れ、ふさがったはずの傷口から僅かに血が溢れ出し、ルナはそこで力を使うのをやめた。
「これで……傷はある程度塞ぎました……私の方も傷が少し開きましたが……」
「ルナ! 無茶し過ぎだよ!」
「す、すみません……これしか……方法が無くて……」
「ルナさん。あなたも止血するから横になって。傷口を見せて」
ウールがそう言うと、セフィーはルナをリリアの隣へと寝かせた。