第169回 カシオの覚悟
激しく轟く柱が砕ける音。天井を支える一本の柱に銀狼の鉄拳が打ち込まれたのだ。
音をたて崩れ行く柱と天井。瓦礫が重々しい音と僅かな地響きを広げ、激しく土煙を舞い上げる。
両手で口を押さえ、奥歯を噛み締め必死に声を殺すカシオは、その音に心拍数を上昇させた。外れたと言え、その支柱があったのは僅かに二・三メートル程。疲労や体への負担から、感覚こそ鈍っている様だが、その拳の破壊力は健在だった。
まだ土煙が舞うその場所からゆっくりと歩みを進める銀狼は、柱を殴った拳を軽く振り周囲を見回す。
「外したか……」
ボソッと呟く銀狼が、ゼロの方へと足を進める。翼をもがれただけで、意識のあるゼロはその足音に表情を歪め体を起こそうと両手を床へと着いた。だが、体を起き上がらせる前にその頭に銀狼の右足が下ろされた。
床が砕ける乾いた音が周囲に響き、ゼロの頭がひび割れた床へと減り込む。額がひび割れた床の破片で裂けたのか、血が床に薄らと広がった。
「貴様はここで這い蹲っていればいいんだ」
「くっ……ふざけ……」
頭を踏まれるゼロだが、その足を跳ね除ける様にゆっくりと頭を上げる。だが、銀狼はそれを許さず、右足に全体重を乗せ、ゼロの頭を床へと叩き付けた。一層大きな音が響き、ゼロの頭が更に床に減り込んだ。体から力が抜け、その場で動かなくなるゼロの姿を見下ろし、銀狼はゆっくり息を吐く。
「大人しく寝ていろ」
右足を退け、もう一度周囲を見回す。鼻を僅かに動かし、嗅覚でカシオの居場所を探ろうと試みるが、辺り一帯に広がる血の臭いの所為で全く役に立たなかった。これも全てゼロの作戦だったのだろうと、銀狼はゼロを睨んだ。
息を殺すカシオは、ようやく息を吐くとそのまま脱力し、その場に座り込んだ。これからどうするかを考え、手に持った渦浪尖と腰にぶら下げた二本のナイフを見据えた。二本のナイフとはもちろん双牙の事だ。ブラストが必要になるだろうと、ここに降りてくる時にカシオに渡したものだった。
使い方も知らないその武器を見据え、カシオはもう一度小さく息を吐くと、僅かに苦笑した。
「どうしろってんだよ……こんなもん……」
大きく肩を落とすカシオは、そのまま横たわるティルとカインへと目を向ける。二人とも体中ボロボロだった。それでも、戦い続けた結果がコレだ。もう余計な体力も無くティルとカインも呼吸は弱々しい。このまま息を引き取ってもおかしくない位だ。
そんな二人の姿を見据え、カシオはふと思う。自分はこれでいいのかと。このまま隠れていていいのかと。ティルもカインもフレイストも皆、全力を尽くして戦った。それなのに、自分は――。
深く息を吐き、自らを落ち着ける。恐怖を払う様、足の震えを止める様、静かに息を吸っては吐きを繰り返す。やがて、何も聞こえない程カシオは集中する。それは、覚悟を決めた証拠だった。
渦浪尖の柄を強く握り締め、腰にぶら下がった二本のナイフをその場に置く。
「ティル。コレは、お前に預けておくからな」
ティルからの返答など当然あるわけも無く、カシオは照れ臭そうに笑うともう一度静かに息を吐き意識を集中する。死ぬかも知れない。そう思うと、ふと思い出す。あの泉で助けてもらった少女セラの顔を。待っていると、言ってくれたその娘の笑顔が記憶の中に。そして、思わず笑う。
「はは……待ってるか……そう、だよな。待ってるんだ……。生きて会いに行かなきゃな……」
震える声で呟き俯く。覚悟を決めたはずなのに、拳が震えだし涙がこみ上げる。奥歯を噛み締め声を殺し、僅かに溢れる涙を拭う。覚悟が揺らぎ、呼吸が乱れる。
「くっそ……ダメだ……」
唇を噛み、硬く眼を閉じる。震える拳を――震える膝を――止めようと必死に力を込める。何とか震えを堪えるが、それでも僅かながら拳も膝も震えていた。深呼吸を何度も繰り返し、大きく息を吐き出す。
「俺がやらなきゃダメなんだ……」
自分に喝を入れる様にそう呟き、唇を噛み締める。
「見つけたぞ……水呼族のガキ!」
突然、響く銀狼の声にカシオは振り返る。壁に亀裂が走り、次の瞬間砕け散り、砕石がカシオを襲う。咄嗟に後方へと跳び砕石の直撃を避けたカシオだが、その砕石の合間をぬぐう様に伸びた銀狼の右手がカシオの首を捉えた。
「ぐっ!」
「こんな所に隠れていたのか。手間取らせやがって……」
首を掴み持ち上げる銀狼は、視線をゆっくりと下ろす。横たわるティルとカインを見つけると、不適に笑みを浮かべる。
「なるほど……やはり、貴様がコイツを連れ出していたか……」
「うぐぅ……」
「だが、それも無駄だったな」
そう告げるとカシオを放り投げ、その体に蹴りを見舞う。
「くぅっ!」
銀狼の右足のスネがカシオの脇腹を抉る。肋骨が軋み、衝撃に亀裂が生じる。その激痛に表情が苦悶に歪み、体を僅かに折り曲げたまま床を激しく横転した。土ぼこりが舞いその先にカシオは蹲っていた。
「ゲホッ! ゲホッ!」
咳き込み吐血するカシオの姿をあざ笑う銀狼は、ゆっくりと歩みを進める。
「一人だけ逃げ隠れするなど、貴様は最低な男だな」
「ケホッ、こほっ……な、こふっ……何とでも言え……」
咳き込み吐血を繰り返しながらも、カシオは静かに体を起き上がらせた。痛みを感じ、思い出す。逃げていてはダメなのだと。この痛みの数十倍の痛みをティル達は受けたのだと。だから、耐える事が出来た。肋骨に入った亀裂の痛みを。恐怖から来る震えを。
渦浪尖を構え、息を深く吐きながら銀狼へと顔を向ける。視点は定まっていなかった。それでも、それを悟られぬ様にと、ただ強い眼差しを向ける。交錯する両者の視線。その瞬間、銀狼は口元に笑みを浮かべる。気付いたのだ。カシオの瞳の揺らぎから、その視点が定まっていない事に。
右拳を軽く握り、小刻みに肩を揺らす。
「その状態で戦うつもりか?」
「俺は逃げない。そう決めた。ティルも、フレイストも、必死に戦った。俺も――!」
カシオが言い終える前に銀狼が地を蹴った。衝撃音が耳に届くと同時に、その視界が一転する。左頬を激しく殴打され、顔が大きく弾かれた。首から上が千切れてしまったんじゃないかと思うほどの衝撃を受けたカシオは、地面を跳ねながら壁へと激突する。
山積みになった瓦礫の下から薄らと血が流れ出す。カシオの血だ。瓦礫に埋もれ、意識を失いかけていた。その手に握った渦浪尖。危うく手を離してしまいそうになったが、何とかそれだけは避ける事が出来た。
「うぐぅ……あぁ……」
霞む視界の中で、瓦礫の向こうを見据える。薄らとだが銀狼の姿が見えた。長い銀髪を揺らし、鋭い爪で床を捉えながらゆっくりと歩みを進める。その足音が近付く中、カシオの眼に額から流れた血が流れ込む。灰色の瞳がその色を真っ赤に染め、やがて銀色に輝く。
真っ赤に染まった視界。そして、全ての動きがスローになる。はっきりと見えた。銀狼の足が、爪が、床からゆっくりと離れていく光景が――。その爪が床へと突き刺さっていくその光景が――。僅かに舞う砕石の行方も、崩れる瓦礫の動きも全てが見える。
今日二度目のその感覚に、カシオは拳を握り下唇を噛み締めた。