第168回 恐怖
背中を踏みつけられ地面へとひれ伏すゼロが、表情を歪める。
銀狼は自らの足の下で這い蹲るゼロの姿を見下し、口元に不適な笑みを浮かべた。そして、その手はゆっくりと伸びる。ゼロの背中から生えた二翼の美しい漆黒の翼へと――。
「まずは、むしり取ってやろう。この忌々しい翼を――」
「やめ――」
「フンッ!」
ゼロの言葉を遮る様に、銀狼が声を上げ一気にその翼を引く。両足でゼロの体を地面へと押さえつけたまま。
「ぐああああっ!」
痛々しい肉の裂ける音が周囲へと響き、ゼロの叫び声がこだまする。ティル・フレイストの両名は、その光景に表情を歪め、目を伏せた。千切れた翼の根元から大量の血が滴れ、ゼロの背中はその血に塗れた。
手に持った二翼の翼を銀狼は投げ捨てると、そのまま右足でゼロの頭を踏み付け、その目を静かにティルの方へと向けた。
「貴様はここで見ていろ。未来が変わる。その瞬間を」
静かにそう告げた銀狼が、ゼロの頭に乗せた右足へと体重を乗せると、そのままの勢いで地を蹴った。ゼロの頭がその蹴る力で地面に減り込み、地面は砕け散る。
その音でティルとフレイストはすぐに顔を上げ、ゼロの方へと目を向けた。先程までそこに居たはずの銀狼の姿がそこから消え、瞬きの間に二人の視界の目の前へと姿を見せる。
「くっ!」
「なっ!」
「反応が遅い!」
両腕を引いた銀狼が、ティルとフレイストの腹部へと同時に拳を突き出す。
「ぐっ!」
「うくっ」
拳が腹へと減り込み、衝撃が体内を破壊する様に爆発的に体に襲い掛かる。その衝撃に耐え切れず、ティルの足は地から離れると、後方の壁へと背中から衝突した。一方で、フレイストはその衝撃にギリギリの所で耐え、地面に足を着いたまま後方へと僅かに吹き飛んだだけですんだ。
それでも、その拳により臓器を圧迫された為、フレイストはその場に膝を落とすと、咳き込み大量の血を口から吐いた。
ティルが背中からぶつかった壁は陥没し亀裂が広がり、その体は壁へと減り込んでいた。その口元からは血が溢れ、弱々しく何度か咳き込んだ。
「あうっ……」
息を吐き意識を保とうとするが、そのティルの手から天翔姫がゆっくりと離れ、床へとその切っ先が突き刺さった。それに遅れ、静かに壁からティルの体が剥がれ、瓦礫と共に床へと落ちる。鈍い音が響き、僅かに土ぼこりが舞った。
うつ伏せに倒れ弱々しい呼吸を繰り返す。腹部を殴られた為、上手く呼吸が出来なかった。薄れる意識の中、静かな足音だけが耳に届く。
ゆっくりとした銀狼の足音が止まり、地に膝を落とすフレイストの顔を見下ろす。
「流石、龍臨族。契約した龍の鱗を使って、打撃を防いだ様だな」
「ぐぅっ……」
フレイストのオレンジブラウンの髪を掴み顔を上げさせると、その額に自らの額をぶつけ、ふてぶてしく笑う。
「龍の鱗を使っても、我の打撃の破壊力は受け止めきれなかっただろ」
「くっ……」
「ふっ。いい目だ。だが、我の最も嫌いな目だ!」
大きく仰け反った銀狼は、勢いをつけフレイストの頭へと頭突きを見舞う。鈍い打撃音が響き、フレイストの体が後方へとよろめく。その額から血を迸らせて。だが、フレイストの体は倒れない。銀狼が髪を掴み、それを許さなかったのだ。
「ぐっ……」
「龍臨族……懐かしいな。カーブン。そう……確か、そう言う名……だったか?」
「それは……私の父の名だ!」
フレイストの皮膚に浮き上がる鱗模様。そして、力強い言葉と共に右腕が振り抜かれた。漆黒の鱗に包まれたその手は大きく鋭い爪が三本、銀狼の体を裂いた。肉の裂ける音が僅かに聞こえ、鮮血が散る。
しかし、銀狼の体はピクリとも動かず、切りつけられた腹部と胸からただ血を流し、フレイストの髪を掴んだまま立ち尽くしていた。
「ふっ……ふふっ……そうか。お前、カーブンの息子か。通りで似ているわけか……」
「なっ!」
フレイストは驚愕する。引き裂かれた腹部と胸の切り口がまるで生き物の様にうごめくと、互いを求め合う様にゆっくりと糸状の肉を伸ばし、傷を修復し始めたのだ。その光景に表情をしかめ、視線を上げる。互いの視線が交錯したその瞬間、フレイストの頭は床へと力いっぱい叩きつけられた。
顔から床を叩き、床が砕け散る。舞う砕石の一部にフレイストの血が付着し、割れた床の隙間にフレイストの血が流れ込んだ。
銀狼がフレイストの髪から手を離すと、オレンジブラウンのフレイストの髪は、床の割れ目に流れた血を吸いすぐに赤くなった。
ゆっくりと銀狼は立ち上がる。膝がパキッと小さな音を起てると、それに続く様に体の節々が軋み始めた。銀狼の力に対し、フォンの肉体が限界に達しようとしていた。
「くっ……流石に……力を出しすぎたか……」
小さく息を吐き、首をゆっくりとまわす。ひれ伏すフレイストとゼロのその視界に納めると、続いてティルの方へと目を向ける。だが、銀狼はすぐに表情を曇らせた。そこに居るはずのティルの姿が、そこには無かったからだ。しかも、床に突き刺さっていたはずの天翔姫までその場からなくなっていた。
自分の打撃をまともに受けた人間が動けるわけが無い。そう思っていた銀狼は、唇を噛むとその目付きを鋭く変えた。
「くっそ! 下等な人間が! まだ動けたか!」
周囲を見回す。鋭い眼差しで。だが、何処にもティルの姿は無い。龍臨族のフレイストが龍の鱗で防いであの様だったのだ、普通の人間であるティルが動けるわけが無い。そう考えた銀狼は、自らの記憶を引き出す様に静かに目を閉じた。
頭の中で浮かぶ光景が巻き戻され、答えへと辿り着く。この場にまだ動ける奴が居る事に気付く。カシオと呼ばれたその人物が。
「はぁ…はぁ……」
銀狼の視線から、砕けた階段の影で息を潜めるカシオ。その傍らには傷つき意識を失ったティルとカインの姿。手には渦浪尖を握り、呼吸を僅かに乱す。
ティルの指示通りカインを回収したカシオは、ここに一旦カインを隠し加勢に入るつもりだったが、カシオが飛び出したその時には、ティルは銀狼の拳を受け壁から床へと落ちる瞬間だった。今、自分が出て行っても無駄だと、はっきりと理解したカシオは、自分が今出来る事考え、床に倒れるティルと床に突き刺さった天翔姫を回収しココに隠れたのだ。
両肩を大きく揺らすカシオは、僅かによろめき深く息を吐いた。銀狼がカシオの存在を忘れていたとは言え、気付かれない様に息を潜め動いた為、カシオは普段以上に神経をすり減らし疲れが体を襲っていた。
「くっ……どうする……どうする! この後、俺はどうすればいい!」
拳を震わせ、自分自身に問う。あのゼロをも圧倒する銀狼に、カシオは恐怖していた。勝てる気が全くしない。それ所かどう戦っても死ぬイメージしか頭に浮かばない。渦浪尖を握る手が震え、僅かにカタカタと音をたて、カシオはそれを必死で抑え様と拳に力を込め、唇を噛み締めた。
「はぁ…はぁ……うくっ」
息を呑み、壁の影から銀狼の姿を確認する。まだ、カシオ達の居場所を特定できていないのか、鋭い眼差しで周囲を見回し続けていた。あわよくばこのまま見つからないで欲しいと願うカシオ。だが、カシオの願いとは裏腹に、銀狼の動きが静かに止まり、その口元に不適な笑みが浮かぶ。
「見つけたぞ……カシオ!」
笑みを浮かべた銀狼が、そう名を告げると爪を床に食い込ませ強靭な足で甲高い爆音を響かせ床を蹴った。