第158回 あなたの声が
「はぁ…はぁ……」
乱れる呼吸。どれ位走ったのか分からない程、胸が苦しかった。それでも、立ち止まる事無く走り続け、目の前に立ちはだかる鉄の扉を蹴り開けた。
激しい衝撃音が響き、扉が吹き飛ぶ。その鉄の扉が勢い良く宙を飛ぶが、それをゼロは左手で受け止めると、勢いを殺さぬ様にそのまま左手で軌道を上へと移す。すると、鉄の扉はゼロを避ける様に頭上を弧を描き超えると、その後方で地面に突き刺さった。
「遅かったね。フォン」
「リ――ッ! ゼロ」
言いかけた言葉を呑み込み、フォンは叫んだ。そんなフォンの視界にルナの姿が映った。
「ルナぁぁぁぁっ!」
背中から突き出た切っ先から滴れる真っ赤な血。うな垂れた彼女の体が、刃を抜かれると同時に静かに崩れ落ちた。その光景にフォンの目付きが明らかに変わる。
「ゼロオオオオオッ!」
「フォン! 待て――」
遅れて入って来たティルが呼び止める。だが、その声すら聞こえていなかったのか、フォンはゼロに向かって突っ込んだ。拳を硬く握り締めて。
腹の底から吐き出された声が、空気を僅かに振動させる。
大きく振り被った右拳。それを叩きつける様にゼロへと突き出すが、そんな大振りの拳が当たるわけも無く、容易く数歩後ろに飛び退きかわされる。空を切った拳が床へと叩きつけられ、衝撃と砕石を広げるその最中、ゼロの膝がフォンの顎へと直撃した。
「がっ!」
前のめりになっていたフォンの体。完全にカウンター気味に顎をかち上げられ、大きく後方へと体は伸び、顔は天井を向いたまま後方へと吹き飛んだ。だが、両足はしっかりと地面に踏みとどまり、僅かに数歩後方によろめき、倒れる事だけは踏み止まった。
天井を向いた顔が、ゆっくりと下り二人の視線が交錯する。その時間僅か0コンマ何秒と言う本の一瞬で、すぐに二人は動き出す。
フォンは腰を回転させ左拳を振り抜き、ゼロはそれをかわす様に後方へと飛び退く。風圧でゼロの髪が揺れ、拳を振り抜いたフォンはよろめき膝を床へと落とした。
「フォン!」
ティルがその名を呼ぶが、フォンは全く聞こえていない様に、左手を膝に落としゆっくりと立ち上がり、肩を大きく揺らしゼロを見据える。
「ふぅー……ふぅー……」
歯を食いしばり息を吐き、鋭い眼差しをゼロへと向ける。そんなフォンの表情に、薄らと笑みを浮かべたゼロは、その場を逃げる様に軽い足取りで後方へ飛びながら穴の開いた壁の前まで来ると、周囲をゆっくり見回す。
「ふふっ……満身創痍と言うべきかな?」
「ゼロ! お前!」
よろめきながら、右足を一歩踏み出したフォンに、ゼロは静かに首を左右に振る。
「失望したよ。いや……時の流れが残酷過ぎるのか……ここまで力の差が出来るなんて」
「ふざけ――」
「ふぉ……ん……さん……」
フォンの耳に届く。弱々しいルナの声。その声に、ゼロも僅かに驚きの表情を浮かべ、
「まだ、息があったのか。まぁ、どっちにしろその傷じゃ、助からないけどね」
と、静かに笑うと壁の穴から飛び降りた。フォンはゼロを追おうとしたが、足が動かなかった。ダメージが抜けていないと言うのもあったが、それよりもルナの方が気になりルナの方へと重い足を引きずりながら近づいた。
「ルナ!」
「ふぉ……ケホッ……ん……げほっぐふっ……」
ルナの口から大量の血が溢れ、その目は弱々しく震える。今にも閉じてしまいそうなその眼差しのルナを優しく抱き上げたフォンは、その手を強く握った。
「ルナ! しっかりしろ!」
「あな、げほっ…たの……ごほっごほっ……声が……」
苦しそうにそう言いながらも、ルナは嬉しそうに薄らと笑みを浮かべた。もう、彼女の目にフォンの姿は映っていない。ただ、聞こえたフォンの声にそう答えただけ。彼の温もりを僅かに手に感じ、ルナは瞼を震わせながらゆっくりとその体から力を抜いていった。
体を抱き上げたまま、フォンの首はうな垂れる。数秒、数十秒と時が刻まれていった。誰一人としてフォンに言葉を掛ける事が出来ず、ただ二人の姿を見据えているだけだった。壊れた扉の前に立ち尽くすティルは、拳を握り締め唇を噛み締める。ミーファも、ウールも、ただ涙を流し時折嗚咽が混じる。
どれ位の時が過ぎた頃が、壁に空いた穴から冷たい風が流れ込み、フォンの茶色の髪が静かに揺れる。抱き上げていたルナの体をゆっくりと床へと寝かせ、静かに立ち上がる。そのフォンの背に凄まじい怒りを感じ、ティルはその名を呼ぼうとした。だが、それすら許さぬフォンの雰囲気にただただ息を呑んだ。
「ティル……悪い。後は任せる。俺は……」
フォンが静かな口調でそう告げると、ゆっくりと歩みを進める。そのフォンの言葉に、僅かな違和感を感じティルは眉間にシワを寄せた。
穴の開いた壁に右足を掛け、フォンはそのまま身を乗り出すと、僅かに顔を横へと向け、
「あいつと決着を着ける」
と、力強く言い放ち。そのまま床を蹴り外へと飛び出した。
静まり返る室内で聞こえるすすり泣く声。ミーファが、ウールが、静かに涙を流していた。立ち尽くしたまま拳を握り締めるティルに、床に倒れるワノールが静かに手を伸ばす。
「悪い……手を貸してくれ……」
筋力が衰えもう一人で立つ事すら出来ないワノールがそう言うと、ティルは驚いた様に「悪い、聞いてなかった」と慌てて答えると、差し伸べられた手を見てすぐにその手を取り引き寄せる。
「悪い……今の俺じゃ……」
握ったティルの手に僅かにワノールの力が込められるが、その力の弱々しさにティルは驚いた。それ程までにワノールの筋力は衰えていた。
「お前、一体……」
「ああ。奥の手を使ってな……筋力が殆ど失われてる」
「くっ」
その言葉で分かる。どれだけの激闘を繰り広げてきたのか。ここに駆けつけた皆、同じような激戦を終えて尚、ゼロに立ち向かって行ったのだと。ウィンス、フレイスト、カシオ、ブラストの順に視線を向け、ティルは静かに瞼を閉じ、奥歯を噛み締めた。自分がもっと早くこの場に駆けつけていればと。
そのティルの考えを悟った様にワノールは静かに口を開く。
「結果は変わらん。お前がこの場に早く駆けつけていたとしても」
「なっ! ふざけ――」
そこまで言ってティルは口を噤んだ。手を握るワノールの手が僅かに震えているのが分かったからだ。ワノール自身悔しかったのだ。ルナを助ける事が出来ず、何も出来ないでそれをただ見ている事しか出来なかった事が。
そして、ティル自身も分かっていた。自分がいち早く駆けつけたとして、今の状態でゼロと戦っても全く歯がたたないと言う事は。
ただ息を呑み悔しさに奥歯を噛み締めるティルは、不意に服の裾を引っ張られているのに気付き振り返った。そこには、怯える様に瞳を潤ませるリリアの姿があった。ここに一緒に来た事をすっかり忘れていたが、リリアは僅かに口を動かし「あ、あのー」やら「そのー」などと小声で呟く。
一応、本人は周りの空気に気を使っている様だが、その行動が妙に苛立った。
「何だ。話があるのか?」
「ふぇっ、あ、あの、その……」
「誰だ? コイツは?」
ティルの声で、ワノールもリリアの存在に気付きそう呟くと、泣いていたミーファとウールも顔を上げ視線をリリアの方へと向ける。静まり返ったその一室で、戸惑った様に挙動不審になるリリアは、「えっと、えっと」と、口ずさむ。
やがて、落ち着きを取り戻し、二度深呼吸をした後に、
「わ、私にま、任せて貰えませんか!」
と、力強く声を僅かに震わせながら告げた。