第149回 油断
拳を構え、ノーリンは僅かに右足を前に踏み出す。
血溜まりに波紋が広がり、やがて消えていく。
数秒。数十秒の時が流れる。両者の動きが完全に止まり、ただ静かに対峙する。
安易に突っ込んでもロイバーンには傷一つ付けられないと、先程突っ込んで行って理解していた。だから、まず相手を観察する事にしたが、ロイバーンもその事に気付いているのだろう。不適な笑みを浮かべ、ノーリンを見据えていた。
対峙する事一分弱が過ぎ、ノーリンはジリッと右足を僅かに動かす。だが、ロイバーンは一向に動かない。余裕があるのか、それともまた何か罠を仕掛けているのか。どちらにしても、このこう着状態をどうにかするには、ノーリンが動き出すしかなかった。
血溜まりの張った床を蹴り、ロイバーンとの距離を縮める。風が頬を伝い、短い髪が揺れる。刹那、頬に僅かな痛みが走り、遅れて右肩、左腕、左脇腹、右太股と続けざまに痛みが走り、ノーリンは床に崩れ落ちる様に倒れた。
「くっ……」
床に手を着き体を起こしながらそう声を吐く。痛みの正体は注射針だった。いつ、放たれたのか分からないが、痛みの走った箇所に注射針が刺さっていた。血管を直接狙った様に正確に突き刺さり、血が流れる様に注射針の先から零れ落ちる。
これで、何度目か。どれ位の血を流したのか分からないが、ノーリンはすぐ刺さった注射針を抜き、立ち上がった。ノーリンが立ち上がると、ロイバーンはすでに距離を取っていた。ロイバーン自らが戦うと、宣言した時から思っていた事だが、奴自身が真っ向から戦う事など無いだろうと。
呼吸が僅かながら乱れ、頭がふらつく。血を流しすぎた。早めに決着をつけないと、時期に動けなくなる事はノーリンも分かっていた。そして、奴の狙いが何なのかも、薄らと見えてきた。
「はぁ…はぁ……」
「大分息が上がってきた様ですね」
肩を揺らすノーリンに、注射針を右手に取り出し不適に笑いながらそう言い放った。
正直な所、ノーリンにとって、この室内で戦う事は、不利な事だった。本来、空鳥族であるノーリンは空を飛び回りながら戦うスタイルをとっている。大柄な体格と体重を利用し、降下するスピードを増しながら相手を攻撃する。その為、この室内でノーリンは本来の力を発揮出来ずにいた。ノーリンも何とか外へと戦いの場を移そうと試みたが、ロイバーンは一切誘いに乗る事は無かった。
一定の距離が開いたまま、また静かなこう着が続く。ノーリンの僅かに乱れた呼吸音だけが室内には聞こえる。
「どうしました? もう動けなくなったんですか?」
相変わらず不適な笑みを浮かべたまま、ロイバーンはノーリンを挑発する。ノーリンも挑発だと言う事は分かっていた。だから、その場で呼吸を整える事だけを考える。大きく揺れる両肩がしだいに落ち着きを取り戻し、呼吸も大分安定していた。
それでも、体から抜けた血が、ノーリンの思考を完全に鈍らせ注意力が散漫になっていた。普段なら気付くはずの小さな音に全く反応出来ずにいた。
すでに、ロイバーンはその事を見抜いていた。先程から手の中で僅かに奏でる注射針をぶつける音。これは、ロイバーンがノーリンの注意力を測るために奏でていた音だった。その僅かな音に反応しないノーリンに、ロイバーンはずれ落ちた眼鏡を掛けなおしながら肩を揺らし笑う。
「くっくっくっ」
「…………何がおかしい」
静かに問うと、ロイバーンは一層不適に笑い声を上げる。
室内に響き渡るロイバーンの笑い声に、ノーリンは眉間にシワを寄せた。また、何かを仕掛けるつもりなのか、と周囲を警戒するが、その様子は全く無い。いや、正確にはその様子にすら気付けない程、注意力が失われていた。幾重にも張られたロイバーンの罠にすら気付かぬ程。
奥歯を噛み締め、右足を半歩前に踏み出す。それとほぼ同時だった。背後から無数の手が伸び、ノーリンの体を押さえつけたのは。
「くっ! なん――」
「おやおや? 忘れましたか? ここは、私の実験室。ちなみに、私が相手をすると言いましたが、私の作ったオモチャが手を出さないなど、言ってませんよ」
「貴様!」
振り払おうと体を揺するが、それをも力で押さえ付ける。普段のノーリンなら簡単に振りほどけただろう。だが、今のノーリンにそれ程まで力が残っていなかった。両腕を、両足を、無数の腕が縛り上げ、関節がミシッミシッと軋む。
体中に走る痛みに、奥歯を噛み締め堪える。腕に力を入れるが、頑丈に縛り上げられ引きちぎる事も出来ない。
完全に動きを拘束されたノーリンにロイバーンはゆっくり歩みを進める。
「くっふっふっ。もう、お終いですねぇー。あなたは、私の実験体ですよ」
「ふ、ざけるな……」
ロイバーンを睨むノーリンだが、その肩に注射針が打ち込まれた。
「うぐっ!」
表情を歪めるノーリンに対し、ロイバーンは囁く。
「さて、どれ位血を抜かれたら、人は死ぬんでしょうか?」
その声に、表情をしかめる。肩に刺さった注射針の先からゆっくりと赤い液体が溢れ出す。
「さてさて。早く振りほどかないと、あなたは出血多量で命を落としますよ?」
「…………るな」
俯きボソッと呟くノーリン。その首筋に血管が浮き出し、注射針の先から溢れる血が止まる。やがて、ノーリンの腕を捕らえる無数の腕が軋みはじめる。
「なっ! まだ、そんな力が! けど、十分血は――」
ロイバーンがそう言い、止めを刺そうと白衣の下に右手を突っ込んだその時だった。ノーリンの右腕が縛り上げる無数の腕を振り切り、ロイバーンの首を捉えたのは。カランと、音をたててロイバーンの眼鏡が床に落ち、天井高くに持ち上げられる。
「ワシを舐めるな! たとえ、この身が朽ちようとも、貴様だけは道連れにしてくれる!」
「ぐうっ……ぎ、ぎざま……」
喉を掴まれ、思うように発言出来ないロイバーンを見上げ、ノーリンはまだ囚われる左腕に力を込める。軋む無数の腕がその力にはちきれ、砂の様に散っていった。同じように、右足、左足と無数の腕を引きちぎると、ノーリンは天井を見上げる。
「さて、そろそろ、外の空気が吸いたいもんじゃな」
「うっ……何を……いっで……」
ロイバーンがそう呟くと、ノーリンは左拳を握り締めた。指の骨がゴキゴキと音をたて、不気味に室内に響く。
「一緒に外へと散歩に行こうかのぅ」
ノーリンはそう告げると、ロイバーンの体を宙へと放る。と、同時に足を屈めると、一気に床を蹴った。衝撃で床が砕け、床に張っていた血が飛沫を上げる。握られた左拳が振り上げられ、ロイバーンの腹部に刺さる。
血を吐くロイバーンの体を、続けざまに分厚い天井が襲う。ノーリンの勢いは止まらず天井を幾枚もぶち破る。天井とノーリンの拳に何度も挟まれ、ロイバーンの体は夜空へと投げ出された。
冷たい風が吹き抜け、ノーリンは振り上げていた左拳を下ろした。投げ出されたロイバーンの体が地面へと落ちた。一回、二回とバウンドし、人形の様にその場で倒れたまま動かなくなった。
空中に浮いたままそのロイバーンの姿を見据え、
「油断、したのぅ。貴様が、ああ言う策を取る事は、容易に予想がついたわ」
呼吸を乱しながらそう告げるが、やはり血を流しすぎた。体がふらつき、ゆっくりと地上へと落ちた。地面に左膝を落とし、左手を地面に着く。視界が揺らぐ。何度か頭を振り、自らの意識を集中する。
そんなノーリンの耳に奇妙な音が届く。地を何かが這う様な音が。