第148回 三つの戒め
薄暗い室内で膝を落としたノーリンは、右拳を床へと落とすと、大きく肩を揺らした。
ノーリンはすでにロイバーンの策にはまっていた。正常な人は、たとえそれが死んだ人間の肉体だと知っていても、それを殺せば精神的にダメージが残る事を知っていた。ロイバーンはノーリンを見た瞬間、分かった。こいつにはこの策が一番効果的だと。
そのロイバーンの直感は見事に的中し、ノーリンは精神的に疲弊していた。どれだけの人をこの拳で貫いたか、もう考える事すら嫌だった。それでも、膝を立てそこに右手を着きゆっくりと立ち上がる。
ロイバーンはそんなノーリンに薄気味悪い笑みを浮かべ、右手を頭上へ振り上げる。
「ふっふっふっ。そろそろ、終わりにしましょうか? とでも、言うと思いますか!」
と、右手を勢い良く振り下ろすと、ロイバーンの隣りの開かれた扉から、更に肉体改造された人が数人部屋へと流れ込んだ。とことんまでノーリンを追い込むつもりだった。それが、ロイバーンと言う男のやり方だ。
奥歯をギリッと噛み締め、眉間にシワを寄せる。後どれだけ人を殺せばいいのか、自分に問いながら襲い来る者の肉体を拳で貫く。脆く儚く散る命に、ノーリンは更に奥歯を強く噛み締め、力いっぱいに右拳を振り抜く。拳が脆い肉体を打ち砕き、その風圧がロイバーンのボサボサの白髪を大きく揺らした。
「お見事お見事。ですが、風圧じゃ私は殺せませんよっ!」
と、更に振り上げた右手を振り下ろすと、奥の部屋からぞろぞろと改造された人が流れ込む。一体、何度同じ事を繰り返せばいいのかと、両肩を落としうな垂れる。
(もう少しですね)
ロイバーンが不適に笑い、ずれ落ちた眼鏡を掛けなおす。そして、白衣の内側から幾本かの注射針を取り出す。経験から悟った。もうすぐノーリンの心はポキリと折れてしまうと。その瞬間を思い描き、恍惚の表情を浮かべるロイバーンだが、その顔の横を何かが通過し、後ろの壁でグチャリと肉片がつぶれる音が聞こえた。
「な、何だ?」
確認する様に壁に顔を向けると、そこに大量の血と弾けた肉片がへばり付いていた。
ゆっくりとノーリンの方へと視線を戻すと、ノーリンの体の前で、顔の無い肉体がゆっくりと床に膝を落とすと、その肉体が粉状に散った。
白髪が僅かに赤く染まり、血が静かに頬を伝る。だが、ロイバーンに外傷は無い。これはさっき顔の横を通過した肉片の血が付着したのだろう。
静寂の中で「ふぅー。ふぅー」と荒いノーリンの呼吸だけが聞こえる。怒りを堪えている様にも取れるその呼吸法に、ロイバーンは半歩足を下げた。
「逃げるのか? ここまでしておいて」
ボソッとノーリンが呟き、突き出した右手を下ろした。血が拳からテンテンと滴れ、床に広がる赤い泉に波紋を広げる。幾重にもわたって。その血が自らの血なのか、それとも殴り殺した相手の血なのかすら分からない程、ノーリンの拳は赤く染まっていた。
うな垂れるノーリンが僅かに顔を上げると、いつに無く鋭い目がロイバーンを睨んだ。殺意のこもった冷酷な眼差しに、静かに笑う。
「くっふっふっ。思い出しましたよ。あなたの事!」
突然、大手を広げそう声を張り上げたロイバーンに、ノーリンの右目じりが僅かにピクッと動いた。
「頬に三ツ星……ある町を一夜にして血の海に変えた男。ノーリン=バジーヌ。まさか、こんな所であえるなんて、光栄だよ」
「…………」
それが何だと言わんばかりにロイバーンを睨み、硬く拳を握り締める。
確かに五年前、ノーリンは一夜で壊滅した一つの町に居た。だが、それは、依頼だった。膨大な額の金銭の。それは、ある町の長老によって依頼されたノーリンにとって簡単な依頼。隣りの寂れた町を魔物が根城にした。だから、それを討伐して欲しいと言う。ごく簡単な依頼だった。
その日の深夜、すぐに依頼を実行し、町に住まう魔物を次々と討伐していく中で、ノーリンはある異変に気付いたが、それを自分の中で否定し続けた。だが、最後の一軒に入った時、ノーリンの心は壊れた。
泣き叫ぶ子供の声。血塗られた壁。そこに立っていたのは、一人の男。それは、ノーリンに魔物討伐の依頼をした長老。その手に握られた剣の切っ先から血が滴れ、その足元に一人の男が倒れていた。首の無い男が、血を流し。その体に寄り添う一人の少女。その少女の鳴き声に、ノーリンは自分が否定してきた事を認めた。この町に最初から魔物など居なかったのだと。
全ては、あの長老の仕組んだ事だったのだ。その日、この町ではある祭りが行われていた。仮装して町の繁栄を祝う独特の祭り。そんな事とも知らず、ノーリンは――何人、何十人の人をその手に……。
血に染まった拳を震わせ、ノーリンは長老に問いた。『なぜ、こんな事をさせたのか』と。その問いに、答えは簡単だった。
“この町が――この男が邪魔だった”
ただ、それだけの理由。その後、ノーリンはその長老を手に掛けた。許されるとは思っていないが、それがこの町の人々に出来る唯一の事だったから。ただ一人生き残った少女はその後、自ら命を絶った。何処から手に入れたのか分からない、短剣で胸を刺して。
それからだ。ノーリンが頬に三ツ星を刻んだのは。これは、自分自身に科した三つの戒め。
一つ。どんなにお金を詰まれても討伐は行わない。
一つ。今後魔物と言えど、無闇に命を奪わない。
一つ。この町で行った自らの罪を一生忘れない。
この三つの戒め。
握った拳の力を抜いたノーリンは、静かに息を吐き、体の力を抜いた。
「貴様が、何故、その話を知ってる。アレは……あの惨劇は、あの場にいた――」
「ふっふっ……いましたよ。私はずっと、あの場に」
ノーリンの眉がピクリと動いた。
「そうか……貴様が……」
悟った。アレは全て、コイツの仕業なのだと。
「ふっふっ。面白かったですよ。人の信頼とは脆いモノです。あの二つの町、あの二人は旧友だったらしいですよ。それが、ああも簡単に。本当、人の気持ちが壊れていく様は、見ていて気持ちいい」
不気味に笑うロイバーンに、ノーリンは拳を握り締めた。開かれた鋭い眼光がロイバーンを見据え、その場が一気に静まり返る。張り詰めた空気の中、白衣の中へと右手を突っ込んむと、指の間にに注射針を数本挟んで取り出し、
「いいでしょう。ここからは、私があなたの相手をしましょう」
不適に笑いながら、左手でずれ落ちた眼鏡を掛けなおすのと、ほぼ同時だった。ノーリンが床を蹴り、ロイバーンとの距離を縮めたのは。一瞬の出来事に、ロイバーンの動き出しが僅かに遅れ、ノーリンの右拳が完全にロイバーンの腹部を捉えた。
「くっ!」
だが、表情を歪めたのはノーリンの方で、体をくの字に曲げ宙を舞ったロイバーンは、不適な笑みを浮かべたまま床へと着地した。
「ふっふっふっ。得体の知れない相手に安易に飛び込んで行くのは、危ないですよ」
拳に突き刺さった注射針を抜くノーリンにそう忠告すると、もう一度白衣の中へと手を突っ込み注射針を取り出す。
怪訝そうな表情を浮かべるノーリンは、出血する右拳を見据える。力を込めると僅かに走る痛みに、奥歯を噛み締めた。これ位の痛みなら、何とか耐えられると更に強く力を込め、ジッとロイバーンを睨んだ。