第141回 ただの人間
“バリッ! ボリッ!”
と、骨が砕ける嫌な音が周囲に響く。瓦礫の上に横たわり動けないバルドは、そんな巨大な化物オルーグを見上げ、小さく笑い声を上げた。これで、自分の人生も終わりか、と悟ったのだ。
骨の砕ける音が止まり、オルーグが喉を鳴らし、視線をバルドへと向ける。視線が交わり、オルーグがゆっくりと口を開く。鋭い牙がバルドへと近付く。喰われる。バルドがそう思い瞼を閉じた時、一つの足音が聞こえた。
恐る恐る瞼を開くと、そこに立ちはだかる一つの影。それが、右手をオルーグにかざしていた。薄らとした視界の中で、茶色の髪と分厚いコートを着ているのが分かったが、すぐに意識が遠のいていった。
時は少し遡り――。
背後から首筋に伸びた刃に、ティルは息を呑む。
背中を流れる冷や汗。天翔姫の柄を握る手にも汗がにじむ。
「こんな所で、一体何をしているんだ?」
聞き覚えのある声が、ティルに問いかける。すぐ後ろに感じる殺気。体は自然と硬直する。
続く沈黙に、背後で小さく息を吐くのが聞こえた。
「もう一度聞こうか? 何をしているんだ?」
「テメェに、関係ねぇだろ!」
ティルは瞬時に振り返る。その際、首筋に伸びた刃が、僅かに皮膚を裂き血が散る。痛みに表情を微かに引きつらせたティルだが、右手に持った天翔姫を右から左へと振り抜いた。
風を切る音だけが耳に残り、遅れて離れた所に着地する足音が聞こえた。後方に飛び退きかわしたのだろう。呼吸を僅かに乱すティルは、目を凝らしその闇に映る男を見据える。
片手と背中に一本ずつ大きな槍を持ち、落ち着いた表情を浮かべる。長めに伸びた黒髪は夜風に吹かれ僅かに揺れ、その奥に窺えるやや鋭い目が不気味に輝く。
「久しいな。あの時よりも、幾分は反応は良くなっているな」
威圧する様な重々しい声に、以前と変わらぬ圧倒的な威圧感を感じる。
ジリッと左足を退き、天翔姫を構え直す。
「やっぱり、お前か。ヴォルガ」
「ティル=ウォース。また、合間見えるとは思わなかったな」
槍を自分の横に立て静かに笑うヴォルガに、ティルは険しい表情を向ける。圧倒的な力の差があるのは分かっているが、それでもヴォルガと決着をつけなければならない、そう思っていたからだ。どれだけ、戦えるのか、など考えるがすぐに考えるのをやめた。考えてもそれが無駄だと分かっているからだ。魔獣化した時点で、ヴォルガの力などティルの想像を上回るのは分かりきっている事だ。
自らを落ち着ける様に静かに息を吐き、更に左足をジリッと退く。
「逃げるのか?」
ヴォルガの言葉に、ティルは動きを止める。
体がいつしかヴォルガから逃げようとしている事に気づいた。
「くっ!」
頭では分かっているが、体は臆していた。魔獣人と言う強大な力を持った奴を前にして。
不適に笑うヴォルガは、槍を隣に立てたまま、
「別に逃げるなら逃げると言い。お前はただの人間だ。炎血族の様に炎を操ることも、風牙族の様に風を操ることも、烈鬼族の様に肉体を強化することも、天賦族の様に何かを発明することも、龍臨族の様に龍を呼ぶことも、風鳥族の様に空を舞うことも、水呼族の様に水中で呼吸することも、地護族の様に自然と会話することも、時見族の様に未来を見ることも、癒天族の様に傷を癒すことも、出来ない。ただの人間なのだからな」
ゆっくり静かにそう告げたヴォルガに、ティルは顔を伏せる。確かに、ヴォルガの言う通り、ティルは人間。他の種族が持っている様な力など持っていない。そんなただの人間が、どう足掻いて魔獣人に勝てと言うんだろうか。
苦悩するティルに対し、ヴォルガは槍を肩に担ぎ静かに笑う。そして、待つ。ティルが答えを出すその瞬間を。
長い沈黙が続く。どれ程の時間が過ぎたか分からないが、何処かで爆音が轟き、火柱が上った。夜空を明るく照らすその火柱に、ティルもヴォルガも視線を移す。
「これは……」
「派手にやっている様だな。炎血族は」
ヴォルガがボソリと呟く。うつむくティルは、天翔姫の柄を固く握り締めると、鋭い眼差しでヴォルガを睨む。刹那にヴォルガが口元に笑みを浮かべ、担いでいた槍を振り下ろす。刃が地面を砕き、衝撃がティルを襲う。思わず目を伏せると、耳に風を切る音が届く。
「――ッ!」
遅れて、衝撃がまたティルを襲う。槍の柄がティルの横っ腹をなぎ払ったのだ。壁に体を打ちつけ、膝を着く。僅かに砕けた壁の破片がティルの肩へと落ちた。
「くっ……」
表情をしかめたのもつかの間、ザッ、と踏み込む足音が聞こえ、ティルの視界に鋭い刃が見えた。反射的に体を仰け反らせると、刃は僅かにティルの左頬を掠め、ヴォルガの頭上へと振り上げられた。すぐに立ち上がったティルは距離を取る様に後ろへと下がるが、ヴォルガは振り上げた槍をゆっくりと下ろし静かに笑う。
「覚悟は決まっている様だな」
「確かに、俺は人間だ。他の種族の様に何か力があるわけじゃない。だが、俺だけ逃げるわけには行かない。人間だって、この星に住むただ一つの種族だからな」
「そうか。なら、俺も本気でお前と戦おう」
背負っていたもう一本の槍を左手で抜き、静かに構える。一層重々しい威圧感がティルに圧し掛かった。息を呑み、天翔姫を構える。白刃に描かれた赤いマダラ模様が不気味に浮かぶ。
距離的に見て、槍を扱うヴォルガに大分有利だが、それでもティルは剣で戦いを挑む。天翔姫を槍に変えて戦う事も考えたが、優劣よりも使い慣れた剣の方を選択した。
向かい合い数十秒の時が流れ、両者の髪を静かに風が撫でる。呼吸を整える様にゆっくりと息を吐き、ジリッと右足を僅かに前に出すティル。一方、楽しげに口元に笑みを浮かべたままのヴォルガは、右腕を引き切っ先をティルの方へと向けた。
来る、とティルが思うより先に、ヴォルガの右足が力強く踏み込み唸る様に引かれた槍が突き出された。一瞬にして伸びる槍を身をよじりかわすが、その刃は僅かに肩を掠め、鮮血がほとばしる。
「くっ!」
「もう一発行くぞ!」
ヴォルガの声で、視線をそちらに向けると、いつの間にか振り上げられた左手の槍が、体勢の崩れたティルへと振り下ろされた。