第138回 二つの意思
軋み、揺らぐ。
音を立て崩れ始めた建物。
ただでさえ、足場の悪かったその屋上は、更にその足場を悪くしていく。
そんな最悪の状況下で、カインはふら付きながらも次々と足場を移動していた。一瞬の判断ミスが命取りになりかねないこの状況で、カインの集中力は一層研ぎ澄まされていた。
だが、それも限界が近付いていた。
崩れる足場から次の足場に移ろうとした時だった。膝から力が抜け体が傾く。カイン自身も気付く。落ちると言う事に。
「クッ! こんな時に……」
限界が近い事は分かっていたカインだが、まさかこんな所で来るとは思っていなかった。
そして、落ちた。張り巡らされた糸の上に。最悪のパターンだった。粘着性の糸が体に絡みつき、カインは動けなくなった。動けば更に絡み付いてくると言う事は分かっていたからだ。
空を見上げ、静かに瞼を閉じる。冷たい風が頬を伝い、髪を揺らす。
「ふふふっ……はははははっ! これで、あんたも終わりよ!」
その声に静かに瞼を開くと、エリオースの笑い声が止む。そんなエリオースの顔を見据えるカインは、静かに口を開く。
「どうした?」
『どうした?』
「顔色が悪いよ?」
『顔色が悪いぞ?』
突如、声が重なる。カインの声と、もう一つ低く背筋をゾッとさせる様な声が。
そして、その右目にエリオースは表情を強張らせる。
「な、何だ! その目は! な、何なんだ! お前は!」
赤く染まった右目。その目に恐怖するエリオース。そんなエリオースに落ち着いた様子で、
「何だって……炎血族だよ」
『何だって……炎血族に決まってるだろ』
二つの声が重なり、当然と言わんばかりにそう告げる。
身動きの取れないカインに、臆すエリオースは、その右手に糸で槍を形成する。
「死ねぇ!」
鋭い切っ先をカインの方へと向け、力一杯に放る。風を切り、直進する槍は、カインの右脇腹を掠めて消えた。僅かに狙いが外れた。そんなエリオースを見据えるカインは、静かに息を吐き出し、
「そろそろ、ゆっくり休みたいな……」
『そろそろ、ゆっくり休みたいぜ……』
二重に重なる声に、エリオースは「ひぃ」と、小さな声を上げた。すると、カインは体に絡まった糸を青天暁で切り裂き、下の階へと消えていった。そして、闇の中からカインの声が響く。
「さぁ、そろそろ終わりにしよう」
『俺も疲れた。次の一撃で終わらせる』
カインの二つの声が別々に聞こえ、エリオースは静かに後退する。そんなエリオースに、不適な笑い声が響く。
『ククッ……何を今更ビビッてんだ?』
「黙れ! 私が、キサマ如きに――」
「なら、行くよ」
闇の中で、静かに声が聞こえ、風を切る音と共にエリオースの背後にカインが飛び出す。
「さぁ……」
『さぁ……』
声に振り返る。金色の髪の毛先が僅かに赤く染まり、美しく輝く。夜空に一層映え、一瞬その光景に目を奪われる。だが、刹那に気付く。カインの持つ青天暁が赤くほとばしるのに。
「くっ! こんな所で死ねるか!」
叫び放射線状に糸を吐く。空中に跳んだままのカインに逃げ場は無く、糸が体を絡め取る。だが、カインは表情一つ変えず、静かに口を開く。
「燃え上がれ――」
『燃え上がれ――』
折り重なる二つの声に、赤くほとばしる青天暁が炎を吹く。まるでカインの意思に従う様に、その炎は大きく膨れ上がる。赤い右目がジッとエリオースを見据え、口元に笑みが浮かぶ。
『俺はもう一人と違って、優しくないぜ』
カインの唇が動いていないのに、エリオースに届くもう一人のカインの声。その声に左足を退くと、同時にカインに絡んだ糸が燃え上がる。
「なっ! この糸は、お前の血では燃えないはず!」
「血は固まるけど、すでに燃えてる炎は他の炎血族の血と混ざっても消せない」
「くっ! ふざけ――」
『終わりだ。散れ!』
夜空に眩く紅蓮の線が走り、エリオースの体は炎に包まれ空へと舞った。燃えカスとなった糸が宙を漂い、カインの体はそのまま地面へと落ちていった。積もった瓦礫に背中から落ちたカインは、大の字になり呼吸を整える。
「はぁ…はぁ……勝った……のか?」
カインの声は夜空へと消え、静かに笑みを浮かべた。
「そうか……僕達は勝ったんだ……」
そう呟いた。自分の中に居るもう一人の自分に。
僅かに赤く染まっていた毛先が元の金色に戻り、青天暁も元の青色に戻っていた。体を共用していたもう一つのカインの存在が完全に消えたのだ。
小さく肩を揺らしながら呼吸を続ける。一つの体を二つの意識が共有したのだ、体に相当の負荷がかかったのだろう。体に力は入らなかった。あの時足場を踏み外したのも、これが原因だ。
限界を超え、動く事の出来ないカインは、天を仰いだまま、
「ダメだ……もう動けない……」
と、呟き、瞼をゆっくりと閉じた。疲弊し疲れ切っていたカインは、瞼を閉じるとそのまま深い眠りに落ちた。静かに寝息をたてるカインの髪を吹き抜ける風が優しく撫でる。エリオースと戦っていた時には無い、屈託の無い幼い顔。その顔に影が掛かり、瓦礫が崩れた。
「くっ、くくっ……のん気に眠りに就いたか……」
血に塗れたエリオースだった。魔獣化は解け、炎を浴び長かった黒髪は殆ど失われていた。
あの時、咄嗟に糸を体に巻きギリギリの所でカインの一撃を防いでいたのだ。致命傷は避けたものの、それでも刃はエリオースの体を深く切りつけていた。ボトボトと滴れる血が、瓦礫を赤く染める。
よろめきながらも、ゆっくりとカインの方へと足を進めるエリオースは、残りわずかな力を振り絞り右手に糸の槍を作りだす。
「これで、ごふっごふっ……さい……ご……」
だが、その槍をカインに突き立てる前にエリオースは、大量の血を吐きその場に倒れた。致命傷を免れていたものの、その体に刻まれた一撃でエリオースの体は限界だった。うつ伏せに倒れたまま、何度も吐血を繰り返すエリオースは、槍を手に持ったまま静かに息を引き取った。
糸で紡いだ一本の槍はエリオースの力を失い、ただの糸に戻り風によって夜空へと舞い上がった。