第132回 暴走
互いに背中を向け立ち尽くす二人。
振り抜いた互いの刃からシトシトと赤い雫が落ちた。
制止する二人の間に静かに風が流れ、土煙が舞い上がる。
「くっ……」
その静寂の中で、ウィンス僅かな呻き声を発し、膝を落とし吐血した。口から吐き出された血が地面に落ち、苦痛に表情が歪む。右肩から左脇腹にかけて深く切りつけられ、体中が毒で痺れ始めていた。
声を出す事が出来ない程の激痛に襲われながらも、ウィンスは牙狼丸の柄を握り締めたままゆっくりと体を起き上がらせる。膝が震え、腕が震え、視界が揺らぎ、呼吸が徐々に苦しくなる。それでも、牙狼丸を地面に突き立て、支えにしながら何とか立ち上がった。
背を向けていたジャガラは振り返り、右頬から流れる血を拭う。あの瞬間、身をそらしウィンスの刃をかわしたつもりだったが、切っ先が僅かに頬を掠めていた。
苦痛に表情を歪ませるウィンスを真っ直ぐに見据えるジャガラは、ナイフの切っ先をウィンスの方へと向け、
「俺の勝ちだ」
「ま、まだ……うご、け……」
無理矢理吐き出した言葉だが、それ以上声が出せなかった。意識が揺らぎ、牙狼丸の柄から手が離れ、体が沈み、力なく地面に倒れ込む。土煙が舞い、牙狼丸だけがその場に佇んだ。
大型ナイフを手に持ったまま、静かに歩き出す。一歩、また一歩とウィンスの元へと。
僅かに残る意識の中で、近付いてくる足音だけが耳に届く。どれだけ体に力を込めても、どれだけ拳を握ろうとしても、体はもちろん指一つ動かす事が出来なかった。
「俺の勝ちの様だな」
足音が止み、ジャガラの声が耳に届いた。返答する事も出来ず、ただ荒い呼吸を繰り返すウィンスを見下ろす。暫しの間ウィンスを見据え、ジャガラはナイフをマントの内側へと戻し、ゆっくりとカルールとケイスの方へと視線を向けた。
その視線に気付き、素早くライフルを構えるカルール。遅れて傷を負ったケイスが大剣を構える。だが、そんな二人に対し、ジャガラは両手を静かに上げ、
「お前達と争う気は無い」
と、静かに述べ、右手をマントの下へと戻し、一本のビンと取り出した。茶色のやや小ぶりのビン。何か液体が入っているのか、チャプチャプと小さく音がする。それがなんなのか分からず、警戒する二人に対し、ジャガラは視線をウィンスの方へと向け、
「これは解毒薬だ。今、コイツに数滴与えれば、助かるかもしれない」
「ふざけんじゃねぇよ。敵の言う事を、信じるわけねぇだろ!」
カルールが怒鳴ると、ジャガラは「そうか」と、小さく呟き、ケイスの方へと目を向けた。ひび割れた眼鏡越しに睨み合う両者だが、ケイスはゆっくりと大剣を地面へと突き立て、右手を差し出す。
「あなたの目に嘘は無い」
「ば、バカ! 何言ってんだ! お前は! アイツは敵なんだぞ!」
「確かに敵……ですが、あの目に偽りはありません。それに、あのままでも彼は死にます。ワザワザ毒を渡す必要はありませんよ」
「だ、だからって、アイツを信用するなんて――」
「どちらにせよ、コイツをこのままにして置けば間違いなく死ぬ。早く判断した方がいいと思うが?」
もめる二人に対し、ジャガラはビンを振りながらそう述べた。「くっ」と、声を漏らしたカルールは、拳を握り締め、構えていたライフルを下ろし、ゆっくりとジャガラの方へ顔を向け、
「分かった。信じてやる。だが、もしもコレが毒だった場合」
「俺の命をお前達にくれてやる」
そう言うと、ジャガラはビンをカルールの方へと放った。茶色の小瓶が弧を描きながら宙を舞う。その小瓶へと三人の視線が向けられた時、鈍い短音が聞こえ、遅れて呻き声が届く。慌てて小瓶をキャッチしたカルールは視線をすぐにそちらに向け、既に視線を声の方へと向けていたケイスは地面に突き立てた大剣を抜き、構える。
「ぐっ、ガハッ……ガ、ガゼ――」
「くくくっ、油断シタナ」
掠れたジャガラの声に遅れて、濁った耳障りな声が聞こえた。胸から突き出た四本の鋭い爪が僅かに動き、血がその爪を伝う。口角から血を流すジャガラは、背後に立つガゼルの方へと視線を向けた。
「お、お前等、仲間だったんじゃねぇのか!」
カルールが叫ぶと、ジャガラの胸から突き出ていた爪が引き抜かれた。膝から崩れ落ちるジャガラ。地面にうつ伏せに倒れこみ、血が地面に広がる。
血の付いた爪を見据え、不適に笑い続けるガゼルが両腕を広げ、天を仰ぐ。
大気が震え、土煙が舞い上がる。地面が僅かに揺れ、ガゼルを中心に亀裂が走る。割れた地面が隆起するが、震動によりすぐに崩れた。
吹き抜ける突風に表情を顰めるカルールとケイス。その視線の先に存在するガゼル。既に体は魔獣化されているが、その肉体に亀裂が走り、更なる変貌を遂げる。
額から突き出る角。指先から鋭く伸びた爪は引っ込み、代わりに手の甲から鋭利な刃物が生える。口角からむき出しになった牙は更に鋭利で頑丈なものとなっていた。その牙から滴れる液体。ゆっくりと動く血走った目。
全ての空気を呑み込むガゼルの変貌に、カルールとケイスは自然と後退する。その二人の動きにガゼルの顔がゆっくりと動く。
「くくくくっ……逃ゲラレルト思ウナ」
「来るぞ! ケイス!」
カルールの声に、ケイスが大剣を構える。が、刹那、ケイスの視界をガゼルの手が覆った。音も無く、一瞬の出来事。全く反応する事が出来ぬまま、ケイスは頭部から地面へと叩きつけられた。地面が砕け、鮮血と一緒に砕石が舞う。
「くはっ!」
「ケイス! てめぇ!」
ケイスを地面に叩き付けたまま動かないガゼルの頭部に銃口を向ける。引き金に掛かった指に力を込めるが、それよりも早くガゼルの手がそれを払った。そして、喉元に突きつけられる鋭い爪。
「くくくくっ……死ネェ」
ガゼルが拳を振り被ると同時に、カルールは懐から小型のカプセルを取り出し、それをガゼルの顔面へと放る。と、同時にカルールは身を屈めた。それと同時に突如カプセルが爆発し、ガゼルの体がよろけた。
爆風でカルールとケイスの体が地面を転がる。
「くくくくっ……フザケタマネヲ……」
爆弾を直撃したガゼルだが、全くの無傷で仁王立ちし、怒りに拳を震わせる。
爆風で地面を派手に転がったカルールは全身に擦り傷を作りながらも、ジャガラから受け取った解毒剤のビンだけは何とか死守していた。だが、あまりにも激痛にその場から動く事が出来なかった。早く、ウィンスに解毒剤を届けなければいけないと、力を振り絞るが、上半身を起こすのが精一杯だった。
「くっ……」
「おい……お前……」
激痛に表情を歪めるカルールに、背後から苦しそうな声がする。視線だけを後ろに向けると、そこにはワノールが立っていた。毒を食らい時間が経ち、大粒の汗を額に滲ませるワノールは、黒刀・烏を地面に突き立て、カルールをジッと見据えていた。
そのワノールの状態に、カルールは自らの持っていた解毒薬に視線を戻す。そして、意を決した様にそのビンを転がした。カルールの手元から転がってきたビンに、視線を向けるワノールは静かな口調で問う。
「何だ、それは?」
「解毒だよ。お前も、毒をくらってんだろ?」
その言葉にワノールは小さく息を吐いた。
「俺は大丈夫だ……俺よりもアイツの方が重症なんだ。アイツに渡せ」
つま先で転がって来たビンを蹴り返し、そのまま右足を踏み込む。ビンはゆっくりとカルールの体に当たり動きを止め、ワノールはゆっくりと右目の眼帯に触れ、地面に突き立てた黒刀・烏を引き抜き不適に笑った。