第129回 牙狼丸
血飛沫が舞い、ワノールの表情が歪む。
ギリギリで身を引いたが、その刃は右頬を掠めていた。飛び散った鮮血は僅かだが、その掠り傷がワノールに与えるダメージは相当の物だった。
距離を取り、体を蝕む毒に表情を歪めるワノールに、ナイフに付いた血を拭い目を向ける。その目は相変わらず冷やかで、人を殺す事に全く躊躇いすら感じない。
左手で頬の血を拭い、荒い呼吸を繰り返すワノール。激しい動きに毒が更に体内を蝕む。額から溢れる汗がいつもより多く、視界も徐々に霞み始めていた。それでも、体勢を崩す事無く剣を構え、ジャガラの目を真っ直ぐに見据える。
そんな両者の睨み合いが続く中、ワノールの遙か後方で、舞い上がる土煙の中から、小さなウィンスが飛び出す。額からは血が流れ、短髪の黒髪も分かり難いが血に染まっていた。
「くっ! いきなり、何しやがる!」
半壊し壁が崩れた建物の二階へと着地したウィンスは、土煙の方へと顔を向けそう怒鳴る。すると、不適な笑い声がこだまし、ウィンスが出てきた所とは逆の位置からガゼルが飛び出し、まだ崩れていない建物の壁を破壊してそこに着地する。
土煙がガゼルを覆い、瓦礫が積まれる音が微かに聞こえる。静かに流れる風はゆっくりと土煙を吹き払い、ガゼルの姿を徐々にあらわとする。
向い合う建物の二階に佇む両者。間には幅の広い中央道。他に遮るものは無く、風だけが吹き抜ける。
「どう言うつもりか知らねぇけどな。俺は、お前なんかと戦うつもりはねぇよ」
「ふっ、ふははははっ! お前に戦う気が無くても、俺はお前を殺す。全力で! その方が、奴を苦しめる事が出来るからな!」
ガゼルの言葉にウィンスは顔を顰めた。以前、戦った時の事を思い出したからだ。あの時も、似たような事を言っていた。ティルを苦しめると。そんな事の為に殺されなきゃいけないなど、バカバカしくて呆れてしまうウィンスは、ガゼルを指差すと、
「俺はお前に構ってる程暇じゃねぇんだよ!」
「テメェの事情なんて関係ねぇよ。ここで、テメェを殺す。俺がそう決めたんだよ」
ガゼルはそう言うと両腕に炎を灯し、不適な笑みを浮かべ、
「さぁ、とっとと終わらせてやるぜ」
「ったく……面倒くせぇな……」
ウィンスは渋々腰にぶら下げた牙狼丸の柄を握る。だが、すぐに顔をしかめ、その手を離した。また、暴走するんじゃないか。そう思うと、牙狼丸を抜く事が出来なかった。動悸が激しくなるのを感じ、左手で胸を押さえ胸倉を握り締める。
僅かに震える手。
恐怖している。牙狼丸を抜く事に。姉を傷付けた事が――過去に犯した罪が――そうさせたのだろう。
奥歯を噛み締め息を整え、ガゼルに悟られぬ様に、堂々と挑発する様に不適に笑い、
「来いよ……。お前を相手にするのに牙狼丸は必要ない」
「何だ? 自分が強くなったとでも思ってるのか?」
「そうだって言ったら?」
「フッ……フハハハハッ! 大層な自信だ! だが、自惚れるな! 貴様がどれだけ強くなろうと、俺の前では無意味だ!」
ガゼルが床を蹴ると、音を起て床が崩れる。
土煙を背に迫り来るガゼルに、ウィンスは右足を一歩引くと、拳に風を集めた。甲高く耳に残る様な風の音に、ガゼルは不適に笑う。
その笑みの意味を理解する間も無く、両者の距離が縮まり、ほぼ同時に拳を突き出す。拳が僅かにぶつかり、両者が拳に込めた力が衝撃となり放たれる。初めに突風が吹き、遅れて風を呑み込む様に炎が眩く周囲を照らし、最後に熱風が周囲を鎮火した。
半壊状態の建物の一階から四階までが完全に抉られ、瓦礫がパラパラと宙を舞う。土煙と黒煙が入り混じり、破壊された水道管から水が流れ落ちる。瓦礫を踏み締める足音が静かに一つ響き、ゆっくりと歩みを止めた。
「これで、剣を抜く必要はなくなったな。隠れ里の様な場所に逃げ込んで怯えて暮らす貴様等風牙族が、炎血族と魔獣の力を持つ俺に勝てるわけねぇだろ」
瓦礫に埋もれ、仰向きに倒れるウィンスを見下し、そう吐き捨てたガゼルは、苦痛に表情を歪め魔獣化を解いた。体は縮み、鋭い爪も引いて行く。
元の姿に戻ったガゼルは、深く息を吐き、苦しそうに咳き込んだ。口から吐き出された血の雫が、地面へと散ばる。魔獣化とはそれ程までに体を酷使するモノだった。
「くっ……カハッ……」
何度も血を吐くガゼルの背後で、微かに瓦礫が崩れた。音は無く、誰もその事には気付かず、ゆっくりと静かに風だけが流れ出す。その奇怪な出来事に、血を吐いていたガゼルも気付き視線を上げる。すると、目の前に異様な光景が映る。
渦巻く風の中に佇む一本の剣。鞘に納まっているが、その剣が鼓動している様に、僅かな波動を広げる。冷たい風が頬を撫で、赤い髪を掻き分け抜けて行く。土煙が足元を包み隠し、散ばった瓦礫がカタカタと音を奏でる。
苦痛に表情を歪めるガゼルは、その異様な光景に一歩後退る。
波動の間隔が徐々に短くなり、ゆっくりと鞘から刃が姿を見せ始めた。美しく煌くその刃に、息を呑むガゼル。魅了されていた。その美しさに。だが、突如吹き荒れた突風で、我に返り、瞬時に腰にぶら下げていた剣を抜く。遅れて衝撃と金属音が響き渡り、ガゼルの体が後方へと押される。
「クッ!」
「よく防いだな」
ぶつかり、擦れ合う二つの刃。そして、ガゼルと対峙するのは、ウィンス。だが、その風貌、声質、口調が明らかにウィンスと違っていた。戸惑うガゼルは、奥歯を噛み締め力一杯にウィンスの体を弾き返す。
小柄なウィンスの体は軽々と弾かれるが、何事も無かった様に距離を取り牙狼丸の刃を眺める。
「ふふふふっ……。我ながら、惚れ惚れする。この研ぎ澄まされた刃……」
不適に笑みを浮かべるウィンスに、苦痛に表情を歪めるガゼルは切っ先の向け叫ぶ。
「大人しく寝てれば苦しむ必要も無かったのにな!」
「何を言ってる? 苦しそうなのは、お前の方だろ? それとも、その苦痛の表情は芝居だといいたいのか?」
穏やかに笑うウィンスは、ガゼルを真似て切っ先を向ける。
二人の間に静かに流れる風。その穏やかな風に瞼を閉じたウィンスは、ガゼルに向けていた切っ先を下ろすと、両腕を広げ、
「再開しよう……と、言いたい所だが、早くさっきの化物に変わってくれないか? 我は血を欲してる。それも、強き者の血を」
「くっ……後悔する事になるぞ」
「後悔? 残念ながら、我の人生は後悔の連続だった。まさか、この様な無様なモノに封印されるとはな」
静かに笑いながら、牙狼丸を見据える。
そのウィンスの余裕の態度に、ガゼルは奥歯を噛み締めると、雄叫びを上げた。ビリビリと大気を震わせ、衝撃が広がる。ガゼルの体がみるみる膨れ上がり、鋭い爪が伸び、牙がぎらつく。魔獣化が進むガゼルを静かに見据えるウィンスは、右手に持った牙狼丸を二・三度振るい、それを天へとかざす。
まるでガゼルなど眼中に無い。そう言わんばかりの態度に、魔獣化が完了すると同時にガゼルは地を蹴った。初速でウィンスの間合いへと入り込み、二歩目を踏み込むと同時に右腕を振り抜く。だが、その腕の動きがすぐに止まる。澄んだ金属音を奏でて。