第120回 圧倒的な力
風が吹いた。静かな風が。
その風が頬を撫で、髪を揺らす。
うごめくクローゼルの長い腕がその動きを止める。不敵な笑みを浮かべるクローゼルが静かに身体をくねらせ、舌を何度も出し入れする。
ゆっくりと自らを落ち着ける様に深呼吸をするカシオは、足の感覚を確かめる様に右足のつま先に僅かに重心を移動させた。膝が微かに震えるが、この程度なら支障は無い。そう判断し、カシオは身を屈める。
鋭い視線が静かにクローゼルへと向けられた。うごめく腕の数は二十近いが、それに目もくれずただ一点にクローゼル本体を見据える。
不適な笑みに口から何度も出し入れされる長い舌。蛇の様に体をくねらし、カシオの方に目を向ける。
両者の視線が交わり、カシオは動き出す予備動作として右足のつま先に体重を乗せ、前傾姿勢へと入った。一方で、クローゼルも全ての腕の動きを止め、ゆっくりと上半身を前へ出す。まるで挑発する様な態度に、カシオは僅かながら眉を動かしたが、すぐに意識を集中する。
乾いた風が吹き、対峙する両者の間を流れた。巻き上がった少量の土煙。
いつに無く集中力の高まるカシオは、もう一度ゆっくりと息を吐き出す。逆境に立たされたからだろう。いつも以上に高まった集中力が、カシオの五感全てを最大限まで引き上げていた。微かな風の音が聞こえ、舞う微量の塵が見え、僅かな土の香りを感じ、口に広がる少量の血の味すら鮮明に感じ取れた。
研ぎ澄まされた感覚の中で、カシオも確かに感じる。いつもとは違う何かを。
前傾姿勢をとったままゆっくりと周囲を確認する。クローゼルの側に横たわるグライブ。後ろには戦意を失ったアリア。最悪の現状の中で、カシオは異常なまで冷静になれた。
(まずは……あの腕を……。でも、本体を叩いた方が……いや、俺が本体を叩く前に、あの腕に叩かれる。やっぱり、あの腕から何とかしないと……)
静かに考えを纏めたカシオは、もう一段階体勢を低くすると、体重を乗せた右足のつま先で力強く地を蹴った。動き出しは最高の出来だった。低い姿勢を保ち、直進するカシオ。しかし、その体が突如大きく仰け反る。地中から飛び出したクローゼルの拳に顎を打ち抜かれて。
「ぐっ!」
完全な不意打ちのカウンターに勢いを殺がれ、大きく仰け反るカシオ。そして、無防備な体へと無数の拳が降り注ぐ。
「ぐふっ! うがっ……」
幾重にも重なる打撃でカシオは吐血する。地面の割れる音が轟き、土煙が舞い上がる。
どれ位降り注いだのか分からなくなる程長かった打撃が止む。土煙は風によりすぐに消え、砕け窪んだ地面に減り込むカシオは、薄らと瞼を開く。ぼやける視界の向うに青い空が見える。
(うっ……裏めった……下からのカウンターとか、反則じゃねぇか? くそぅ……一体、何本出てくりゃ気が済むんだ……)
ボンヤリとするカシオは、右手に握る渦浪尖の感触に口元に笑みを浮かべた。
「だな……弱気になっちゃいけねぇ……。ここで負けるわけにゃいかねぇな……」
柄を握り締め、ゆっくりと体を起こした。額から流れる血を左手で拭い、霞む視界の中でクローゼルを見つける。膝に力が入らず立つだけで精一杯の状況でも、強気な視線は変えず乱れた呼吸を整える。息を吸う度に体に痛みが走り、唾を呑めば血の味が喉を通った。
「くっくっくっ……貴様ノ攻撃ハ俺ニ届カナイ……コノ腕ガ、オ前ヲ打チ抜ク」
「だからなんだ……。言っとくけど、俺は諦めが悪いんだよ。攻撃が届くまで何度でも攻撃するまでだ……」
口元に笑みを浮かべるカシオは、渦浪尖を構え直す。
その行動に不適に笑うクローゼルは、自分を囲う腕を動かし風を切る様に一発目の拳がカシオに落ちる。先ほどよりも速度に乗った一撃に、カシオもそれ相応の反撃をする為、右足を踏み込む。しかし、膝に力が入らず体勢が崩れ、遅れてクローゼルの拳がカシオの頬を打ち抜く。
「ぐうっ!」
「マダマダ行クゾ!」
続け様に二発目三発目が鋭く振り下ろされる。カシオの左右の頬をクローゼルの拳が交互に打ち抜く。血が吐き出され、口角から流れる。しかし、何発、何十発と殴られてもカシオは膝を落とす事なく、ただクローゼルを睨み続けた。
(くっ……頭がボンヤリする……殴られすぎた……。でも、ここで引き下がるわけには……)
奥歯を噛み締め、踏み込んだ右足に力を込める。指先に力を入れると膝が僅かに震え、体を支える事が出来ない。
(うっ……まだ、ダメージが残って……でも、そんな事を言ってる状況じゃないんだよ! 動け! 動け!)
無理矢理右足の震えを止めたカシオは、奥歯を噛み締め向かい来る拳に向って反撃となる一撃を突き出した。切っ先が合わせた様に向ってきた拳の中心を突く。勢いに乗った拳が刃に触れ真っ二つに裂ける。鮮血が舞い、カシオの体に飛び散る。
しかし、悲鳴を上げるでもなく苦しむ表情を見せるでもなく、ただ不適に笑うクローゼル。その表情に、カシオも異変と妙な胸騒ぎを感じた。
(今の手応え……)
不意に地面に転がる裂けた腕を見据える。激しく血飛沫を上げていた腕だったが、それはまるで抜け殻の様に皮だけがそこにはあった。表情をしかめるカシオは、ゆっくりと渦浪尖を構え直し、もう一度クローゼルの顔を睨んだ。
両者の視線がぶつかり、数秒の時が過ぎる。動き出すのはやはりカシオ。膝の震えを強引に押さえ込み、地を駆ける。そのスピードは上がらないが、それでも着実にクローゼルとの距離は縮まっていく。風を斬る音が耳に届き、遅れてクローゼルの腕がカシオに迫る。
タイミングを合わせた様に右足を踏み込むカシオは、振り降りる拳を真っ直ぐに見据え、渦浪尖を突き出そうとした。だが、それを突き出す前に、カシオの顎をもう一度地面から飛び出した拳がかち上げた。
「ぐっ!」
顎をかち上げられ、上半身が大きく浮き上がる。そして、狙いすました様に無防備になった上半身に拳が襲い掛かった。鈍い音と血飛沫が散る。骨が砕ける嫌な音が周囲にこだまし、大地が激しく揺れ動いた。
何発続いたか分からないが、降り注ぐ拳が動きを止めた時、そこには血溜まりが出来ていた。鮮血に染まったクローゼルの拳がゆっくりと宙へと浮き上がる。
「くくくくっ……マズハ一人目……」
クローゼルの不気味な笑いがこだまし、遅れて鮮血に染まった拳が地に落ちた。大量の血飛沫を撒き散らせて。何が起こったのか理解できていないクローゼルの表情が一瞬固まった。だが、すぐに状況を把握したのか、もう一度不気味な笑い声を発する。
「くくくくっ……アノ状況デ、ヨク反撃出来タナ」
「うっ……ッ……。俺も、色々修羅場は潜って来てるんだよ」
静かに渦浪尖の鋭利な一本の刃が土煙から姿を見せた。斬る事に特化した鋭い一本槍を、ゆっくりと地面へと突き立てたカシオは、肩で息をしながらも、ゆっくりとクローゼルを睨む。
咄嗟の判断だった。顎をかち上げられたその瞬間、三又に分かれた刃だった渦浪尖を解除し、一瞬で一本槍へと変更。その後は向って来る拳をただひたすら斬り続けた。散乱する鮮血は全てクローゼルの拳から。そして、あの骨の砕ける音は、クローゼルの振り下ろした拳から聞こえた音だった。
「ハァ…ハァ……これで、大分、腕を減らしたぞ……」
「くくくくっ……。ソレガ、ドウシタ? 腕ハ幾ラデモ」
クローゼルがそう言葉を吐くと、地中から新たな腕が無数飛び出した。土煙と大量の土を撒き散らしながら。