第112回 撤退
両者が対峙し数秒。
静寂と共に流れる時間の中で、滲み出る汗と流れる血が混ざり合う。
肩を大きく揺らすディクシーに対し、不適な笑みを浮かべたままのツヴァル。両者共に同じ程度の傷を負っているはずなのに、対照的な状況にディクシーの表情が曇る。
剣を握る手に力を込めるが、足が動かない。それは異様な空気を放つツヴァルの存在を、危険だと認識したからだろう。間合いを詰める訳でも遠ざける訳でも無く、一定の距離を保つ両者の間に乾いた風が緩やかに流れる。
薄ら笑いと共にツヴァルの体が左右に揺れた。その動き出しに身構えるディクシーが、右手に持った剣を胸の前で構える。
「フフフフッ……フフフフフッ……」
不適な笑い声を漏らすツヴァルが、俯き更に体を左右に揺さぶる。その動きをジッと見据えるディクシーは、右足を引き摺る様に一歩前に出す。両者の距離が僅かに縮まるが、一向に動き出そうとはしない。そんな二人の視線が交わったままゆっくりと時が過ぎる。
刹那、歓喜の声が周囲を包む。それは、フォースト王国の兵士達の上げた歓声。何が起こったのか分からず、視線をツヴァルから外したディクシーは、目の前に広がる光景に驚愕する。
そこに広がっていたのは、壊滅寸前の自分達の軍。何故、その様な状況に陥ったのか分からず、困惑するディクシーに、追い討ちを掛ける様に首筋に冷たい物が当てられる。
冷や汗が吹き出て、鼓動が早まる。首筋にあてがわれた刃に、背後に感じる気配。一歩でも動けば、間違いなく首が飛ぶだろう。緊張から息が荒くなり、更に汗が溢れる。
どれ位時が過ぎたのかも分からなくなる程、ディクシーの頭の中はゴチャゴチャしていた。魔獣達が人間風情に壊滅寸前に追い込まれ、ディクシー自身もツヴァルに追い込まれた状況。誰がこんな状況を予想していただろう。魔獣軍は間違いなく誰一人予想していなかった状況だ。
奥歯を噛み締めるディクシーは、この状況に苦肉の選択をする。それは――、
「撤退だ! 撤退しろ!」
撤退と言う屈辱的な選択だった。叫び声は兵士達に伝わったのか、各々がくもの巣を散らす様に森へと逃げ帰っていく。それを確認した後、ディクシーは目の前に蹲るクローゼルに対し、手に持った剣を投げつける。刃が回転し、クローゼルの肩へと突き刺さった。その痛みでようやくクローゼルの意識がハッキリする。
「ぐっ……ううっ……」
「確りしろ! これからは、テメェが指揮を執れ」
「はぁ……何を――!」
ゆっくりと体を起したクローゼルが、そこでディクシーの置かれた状況に気付く。
「とっとと行け!」
ディクシーの声にクローゼルが駆け出す。考えている余裕などなく、ただその場に居るのが恐くなり必死で走った。
その背中を見据えるディクシーが、静かに息を吐き。諦めた様な遠い目をして、もう一度深く息を吐く。
短刀をあてがうツヴァルは、ディクシーの耳元で不適な笑い声を上げると、静かな口調で、
「流石……と、言っておきましょう」
と囁く。その声に顔付きを変えたディクシーは、奥歯を噛み締め問う。
「どう言う……意味だ」
「いえいえ。僕も軍を率いる身だから、分かるんですよ。引き際がどれだけ大切かって」
「何が言いたい」
「魔獣達を率いるあなたの判断は素晴らしかった。僕も見習わなくては。でもね……」
突如、ツヴァルの声が遠き、視界が揺らぐ。首筋にあてがわれていたはずの刃物の感触も消える。揺らぐ景色の中で僅かに映る人影が、ニコリと微笑み手を差し伸べる。その瞬間、パチンと何かの弾ける音が聞こえ、全ての風景が鮮明に映り、目の前で笑みを浮かべるツヴァルの顔がはっきりと見えた。
自分に何が起こったのか分からないが、ツヴァルの表情を見て状況を把握する。
「貴様! 何をした!」
「鮮やかな撤退命令。流石です」
「何をしたと聞いてるんだ!」
両翼を広げ怒声を響かせるディクシーが、その額に青筋を浮かべる。
怒りが見て取れるディクシーに対し、落ち着いた面持ちのツヴァルがニコッと微笑みかけ、先程までとは明らかに違う優しい口調で、
「ちょっとした幻覚作用ですよ。どうでしたか?」
「どう言う事だ! 一体、いつから」
「そんな事、ワザワザ答えるわけないでしょ? 一応、少ない手札であなた方を相手にするわけですから」
もう一度ニコッと微笑み、「下手に手札は見せられませんよ」と、続けた。
当然の答えに、ディクシーも表情を歪める。どの様にして幻覚を見せられたのか、どれ位幻覚を見ていたのか、何処までが幻覚だったのか、色々と聞きたい事はあった。だが、どの問いにもツヴァルは答えないだろう。
渋い表情をするディクシーは、自らを落ち着ける様に大きく息を吸い込んだ。その行動を見据えるツヴァルは、右手に持った短刀を回しながら聞く。
「撤退しないんですか?」
「ふざけるな! 幻覚などと言う姑息な手を使って――」
「姑息じゃないですよ。一応、発動条件なども色々ありますから。まぁ、あなた方相手なら、いつでも使えますけど、流石に何度も使えるほど便利じゃないんで」
何処か余裕の見えるツヴァルに、苛立つディクシーは口元に薄らと笑みを浮かべ、ゆっくりと空へと舞い上がる。暖かな風が吹き荒れ、土煙がツヴァルを覆う。突風に煽られるツヴァルの赤紫の髪が揺れる。顔を覆う様に左腕を上げたツヴァルは、目を細め空へと舞い上がるディクシーの姿を見据えた。
空を見据えれば翼を羽ばたかせるツヴァルが、何処から出したのか分からないが、金色の鍔の大剣を振り上げていた。刃に刻まれた龍の刻印が不気味な輝きを放ち、突如として風を呑み込む。異様な空気にツヴァルも気付く。
「うわぁ……。何かやばくない」
「ああ。全く持ってヤバイな」
「えぇ。正直……ヘッ?」
突如、背後から聞こえた声に振り返ると、そこに見慣れた顔があった。老け顔に穏やかな目つき、灰色の短髪。その姿は正しくフォースト王国の国王、ブラストの姿だった。呆気に取られるツヴァルは、少々の間を空けてから拳を震わせ、
「いつから居たんですか!」
怒声を響かせると、ブラストは明るく笑い「まぁまぁ」と両手を胸の前に出し、ツヴァルを落ち着かせる。眉間にシワを寄せるツヴァルは、小さく深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻してからもう一度問う。
「いつから、居たんですか? こ・く・お・う・様」
「ん〜っ。やけに嫌味っぽい言い方だが、何か不服なのかな? 将軍」
「言っておきますけど、僕はあなたが来るまでの時間稼ぎに過ぎないんです。来てたなら、とっとと変わってください。僕の力は分かってるでしょ?」
やけに怒りの篭ったツヴァルの声に、「アハハハッ。わりぃな。将軍」と明るく言い放つブラストに、小さくため息を吐いた。
ツヴァルにとってブラストは苦手な存在だった。国王のくせに適当で、いつも城を抜け出す。そんな奴が何で国王をやっているのかと、昔から思っていた。幼い頃からずっと。自分だったら、もっと上手く国を纏める事が出来ると、思ったこともあった。部下となり、将軍の座を受け継いだ今なら、少しブラストが国王たるゆえんが分かる。彼ならどんな状況でも、何とかしてくれる、そんな期待が持てるからだ。
「後は、任せますよ」
先程までとは明らかに違う刺々しい口調でそう述べたツヴァルは、右手を軽く振りその場を後にする様に歩き出す。そんなツヴァルに「後は任せとけ」と、告げ、漆黒のボックスを素早く細身の刃へと変えた。