第109回 契約と刻印
巨大な二翼の翼が空を覆い、小さな体が膨れ上がる様に巨大化する。
大きく裂けた口から鋭利な牙がむき出しになり、口から吐き出される息が土煙を舞い上がらせる。太い両足が地面へと鋭い爪を突き立て、重々しい音が周囲に響き渡った。
地面が割れ、乾いた風が吹き抜ける。フェレスと名乗った龍の重みに耐え切れず、地面が軋み爆音に近い音を周囲に轟かせる。周囲を一蹴する威圧感。それが、グラスター城一帯を包み込む。
重圧が全ての兵士に伝わり、皆が地面に押し潰されそうになっていた。それは魔獣達も例外じゃない。突然の重圧に動きを押さえ込まれ、その場に立ち尽くしていた。
巨大化したフェレスは、その美しい漆黒の肢体を揺らし、ゆっくりと翼を広げた。光を遮り、影が周囲を包み込む。
「な、何ですか……あれは……」
「あれが、本当の姿……と、言う事だろう」
「それじゃあ……」
驚くレヴィとアルドフの二人に、猛々しい声が轟く。
「そこから動くな若造共。我の力は誰かを守るには不向きだからな」
不適な笑みを響かせ、体を揺する。背筋がゾッとするその声に、アルドフはゆっくりと足を引き、レヴィの横に並ぶ。
強靭でしなやかな尻尾が持ち上がり、口に空気が吸われる。
“ヴォォォォォォッ!”
咆哮が大地を砕きその先の森をも呑み込む。激しい土煙が舞い上がり、半分以上の魔獣が消え失せた。螺旋状に伸びた土煙を見据え、リオルドは乾いた笑いを響かせる。
小さく小刻みに息継ぎをするフレイストは、鱗龍を両手に握ると、静かな口調で述べる。
「街は破壊しないでください」
「分かっている。それに、我が放つのはこれ一発だ。後は、貴様の仕事だ」
「どういう意味ですか?」
「これは契約だ。我と貴様の」
淡々とした口調でそう述べたフェレスは静かな含み笑いを広げた。
フェレスの言う契約が、何なのか分からず難しい表情をするフレイストは、その視線を前方のリオルドの方に向け問う。
「その契約とは?」
「簡単な事だ。貴様は我に肉体を、我は貴様にこの力を。ただそれだけだ」
「その契約は――」
「安心しろ。この契約はお前の親父も交わした契約だ。何の問題も無い」
やはり淡々とした口調のフェレスは、静かに息を吸うとその体を光で包んだ。何が起こるのか分からず、その場に居た誰もが息を呑む。そんな中で響くフェレスの声が、周囲に更なる威圧感を広げた。
「さぁ、右手をかざせ。貴様に契約の証を刻む」
「証?」
「別に大した物じゃない。さっさと右手をかざせ」
フェレスの言葉に右手に握っていた鱗龍を地面に突き刺してから、恐る恐るその手をかざす。すると、光に包まれたフェレスの体が光の粒子となり、かざされたフレイストの右手へと吸い込まれていく。突き刺す様な痛みと、高温の熱がフレイストの右腕を襲い、表情が苦痛で歪む。
光の粒子が腕に入る事に刻まれる赤い文様が、徐々にその色を漆黒へと変えていく。そして、その光の粒子が全て消えた頃には、フレイストの右腕に漆黒の奇妙な文様だけが残されていた。
「クッ……うっ…ッ……」
激痛にその場に蹲ったフレイストは、右手を押さえながら小さく呼吸を整える。
薄らと上がる白煙。口から漏れる吐息が、徐々に安定していく。右腕の痛みは引き、既に何も感じなくなっていた。ゆっくりと左手を離し、右腕に目を落とす。腕に刻まれた文様が美しく輝き、フレイストの頭にフェレスの声が響く。
『これが、契約の証だ。貴様が死なぬ限り消えぬ刻印だ』
「刻印……」
『我の声も、もうお前の頭の中にしか響かん。後は貴様のやり方次第だ』
フェレスの声が途切れ、フレイストが静かに立ち上がる。そして、刻印の刻まれたその手で、鱗龍を地面から抜いた。刃に刻まれた鱗模様が土を巻き込み、宙へと投げ出す。
漂う風格に、異様な空気を感じ取ったリオルドは、瞬時に刃を構えなおした。
緑色の瞳が力強く輝き、凛々しい顔立ちから、ゆっくりと唇が動き出す。
「決着を着けましょう」
「テメェ、調子に乗るなよ!」
怒声を響かせ、リオルドが刃を地面に叩きつける。地面が砕け、破片が弾けた。怒りを滲ませリオルドは地を駆ける。刃が地面を抉り、土煙を巻き上げる。
その動きを見据え、静かに鱗龍を腰の位置に構えたフレイストの脳内にフェレスの声が響く。
『放て。龍の息吹を』
「放て……と、言われましても」
『息を吸い、腹に溜めろ。そして、力を込めて吐き出せ』
フェレスに言われ、ゆっくりと息を吸う。吸い込んだ空気を限界まで体内に蓄え、腹に力を込め一気に放つ。
“ヴォォォォォォッ”
地上を揺らす程の咆哮が、螺旋状の衝撃を一直線に飛ばした。地面が抉れ、土煙が舞う。
衝撃を受けたリオルドは動きを止め、衝撃から身を守る為に大剣を地面に突き刺す。衝撃に押され、後退する。
「グッ……」
衝撃が収まる頃、リオルドの体がグラつき右膝を地面に付く。
「クッ……ざけるな……ふざけるな! テメェらみたいにノウノウと生きてきた連中に――」
拳を震わせ立ち上がる。口の端から血を流すリオルドが、勢い良く大剣を抜くと、雄叫びを上げた。大気が震え、リオルドがもう一度地を駆ける。異常なまで狂った眼が、フレイストを見据え、口から漏れる赤い液が地面に落ちる。
狂ったリオルドを見据えるフレイストの目は冷やかだった。それでいて、哀れみの目でもあった。あそこまでして戦う理由は何なのか。そうまでしてリオルドを動かすものとは――。
考えれば限が無いほどの疑問に、フレイストは小さく息を吐く。
『哀れだな』
頭の中に響くフェレスの声に、フレイストが静かに頷く。
「そうですね……。あそこまでする理由は――」
『貴様には理解出来ない理由だろうな。所詮、貴様の種族は英雄と呼ばれる種族だからな』
「それは……やはり」
『気にするな。種族の問題はいつでも付きまとっているものだ。それにどう立ち向かうかは、そいつ自身の問題だ』
フェレスの言葉でフレイストが俯く。考えもしなかった。こんなにも種族差別が酷くなっているとは。あんなにまで狂ってしまう程、彼等は――。
「変えなきゃいけない……。こんな世界……間違ってる」
『貴様に変えられるのか? 貴様の親父すらなせなかった事を』
「それが、父がなそうとした事なら、尚更私が――」
『ならば、早くソイツを眠らせてやれ』
フェレスの言葉に頷いたフレイストは、摺り足で右足を前に出し、ゆっくりと腰の位置に構えた鱗龍を振り抜く。双方の刃が衝突し火花が散る。衝撃は今までで一番弱々しく、容易くリオルドの上半身が仰け反った。
黒髪が大きく乱れ、狂った赤い瞳がフレイストを真っ直ぐに見据える。何かを言う訳でも無く、その目を見据えるフレイストは、更に右足を前に出し、振り抜いたばかりの鱗龍を胸の前まで引く。
二人の足元に砂塵が舞い上がり、奇妙な気流が生まれ、遅れて鱗龍が勢い良く突き出された。突風が吹き抜け、フレイストのオレンジブラウンの髪が乱暴に揺れる。その手には重々しい感触だけが伝わり、空中には大量の鮮血が舞う。地に沈むはリオルドの体。その後ろには一直線に鋭い傷痕が地面に残されていた。