第108回 戦う理由
静寂の中に聞こえる翼の羽ばたき。
漆黒の肢体は小さく、その長く太い尻尾とは不釣合いなものだった。
緊張の中、生まれる失笑。完全にその龍を馬鹿にした笑いだった。だが、小さな龍はそんな失笑を気にしておらず、久し振りの外界の風景を見回す。
以前外に出た時と、変わり果てた光景。その光景にどれ程の歳月が経ったのかを感じ、小さな小さなため息を漏らす。
想像していたモノと明らかに違う姿の龍に、唖然とするレヴィ。流石のアルドフもその姿に呆気に取られ、一瞬だが気を抜いてしまったが、すぐに気を引き締める。だが、どう見てもあれが二五〇年前に町を半壊させた龍だとは思えなかった。
そんな疑念を抱くアルドフに、背後からレヴィが話しかける。
「……隊長。あれが、本当に凶悪な龍なのですか?」
「見た目で判断するな」
「分かってますが、あれの姿はちょっと拍子抜けです」
レヴィがじと目を向けると、アルドフと多少引き攣った笑みを見せる。
そんなレヴィとアルドフと同じ様に、その龍の姿に拍子抜けするリオルドは、静かに笑い声を上げた。その声に続く様に魔獣達の笑い声が静寂を支配した。
そんな笑い声の中も、堂々たる態度で悠々と空を舞う龍は、赤黒い瞳でリオルドを見据える。何かを言う訳でも無く、笑うリオルドを真っ直ぐに見据える龍は、背後に座り込むフレイストの方に顔を向けた。
深く荒々しい息遣いのフレイストは、体を裂かれた様な激痛に動く事が出来ず、片目を閉じながら真っ直ぐに龍の姿を見据える。
「貴様が、あの時のガキか……」
「私はあなたの事など覚えていないのですが……」
「随分と時が流れた様だな」
昔を懐かしむ様に遠い目をする龍に対し、苦しそうな声でフレイストは聞く。
「その姿は何ですか? 私の知っているあなたは……もっと雄雄しく猛々しかった」
フレイストの言葉を聞き、龍は目を細める。
「何だ? 我の事を覚えているではないか」
「いいえ。私の知っているのは、もっと凶悪な龍です」
その言葉に口元に笑みを浮かべる。意味ありげな笑みが消え、すぐに悲しげな表情を見せた。何かに気付いた様に小さな声で尋ねる。
「カーブンの奴は……死んだのか?」
「えぇ。目の前に居る人物の手によって殺されましたよ」
フレイストにそう告げられ、龍は視線をリオルドの方へと向けた。人と思えぬ姿のリオルドに、訝しげな表情をする龍は、「そうか」と小さく呟く。まるでそれを予期していたかの様な口振りに、フレイストは一つの疑問が生まれた。そして、それを確かめる為に口を開く。
「あなたは、何を知ってるんですか」
「さぁな。ただ、あの事件の事は明確に覚えている」
「あの事件?」
あの事件と言われ困惑するフレイストに、龍は不思議そうな目を向ける。まるで何を言っているんだと言いたげなその口振りに、フレイストも不思議そうな顔を向けた。その表情で何かに気付いたのか、意味深に笑い視線を逸らす。
笑い続けるリオルドは、小さな龍を見据えると右手に大剣を握りなおし、ゆっくりと右足を前に出す。その動きにフレイストが痛みに堪え立ち上がると、龍を突き飛ばし鱗龍を振り抜いた。
金属音が響き、衝撃が広がる。突風に揺れる両者の髪。舞い上がる土煙は二人の足元を隠す。衝撃によろめくフレイストに、不適な笑みを浮かべるリオルドが更に体重を掛けた一撃を振り抜く。重々しい一撃に火花が散り、フレイストの体が沈む。地面が音を立て崩れ、衝撃で周囲の土が陥没する。
「グッ……」
衝撃で体から血が噴出す。朦朧とする意識。それでも、奥歯を噛み締めその状態で踏み止まるフレイストは、やっとの思いで刃を弾き返した。
フラリと後退するフレイストに、リオルドが舌なめずりをして、右腕を振り上げる。朝日に照らされ、切っ先が不気味に輝く。来る、と分かっていても体が動かず、フレイストはその光景を真っ直ぐに見据えていた。霞んだ視界で。
「――死ね」
リオルドの言葉がボンヤリと耳に届く。もっと、何かを言っていた様に聞こえたが、結局最後の『死ね』と、言う言葉しか理解できていない。それ程まで、体は窮地に追い込まれていた。
自分が揺れているのか、相手が揺れているのか、はたまた視界が揺らいでいるだけなのか、それすらハッキリと分からない状況で、やけにゆっくりとリオルドの右手が刃を振り下ろす。死に際には全てがスローに映り、脳裏には走馬灯の様に思い出が蘇ると、よく言ったもので、フレイストの脳裏にも色々な思い出がフラッシュバックしていた。
微動だにしないフレイストを見据える龍は、小さく呟く。『その程度の器か』と。
その瞬間、フレイストの体が揺らぎ、刃がその横をすり抜ける。切っ先が地面を砕き、フレイストの体がヨロヨロとリオルドから離れて行く。
「チッ……。ひん死の状態で、運良くかわしたか……。だが、次は――」
「フン。貴様は馬鹿か? この世界で、戦いに置いて運などと言う不確かなモノは無い。もし存在するとすれば、それは生きたいと言う本能だ」
漆黒の龍がそう口にする。自信に満ちた目と堂々とした態度に、リオルドが小馬鹿にした様な笑みを見せた。
「この期に及んで死にたくない……か。無様な奴だ」
「無様? 貴様、死の恐怖を知らないのか?」
「死など、恐れる者はただの雑魚だ」
「死を恐れぬ者は――ただの馬鹿だ」
龍のその言葉に、リオルドの体が硬直し、肩が小刻みに揺れる。その目が怒りで鋭く変わり、体がゆっくりと龍の方へと向けられた。右手の大剣が地面に触れ、それを引き摺りながら静かに足を進める。
「舐めるな。俺様は最強だ。貴様の様な奴に何が出来る!」
大剣が振り上げられ、その瞬間に龍が笑う。
「止めておけ。お前の力じゃ傷一つ付けられん」
「なら、試してみるか!」
その声と同時に刃が振り降りた。が、急に腕の振りが止まる。
「クッ!」
「あなたの相手は私のはずです」
振り返るとフレイストが、左手で刃を捕まえていた。動きを止められ、眉間にシワを寄せるリオルドは、漆黒の髪を揺らし、フレイストの腹に回し蹴りを見舞う。踏ん張る事の出来ないフレイストの体は、軽々と吹き飛び地面を転がる。
怒りを滲ませるリオルドは、体の向きを変え、切っ先をゆっくりとフレイストの方へ向けた。うつ伏せに倒れるフレイストは、右手に握った鱗龍を地面に突き刺し、やっとの事で立ち上がる。
顔を上げると視線がぶつかる。赤い眼と緑の眼が交わり、リオルドの口元に笑みが浮かぶ。
「貴様から死ね!」
「悪いが、お前は少し黙ってろ」
背後で聞こえた声に遅れ、激しい衝撃がリオルドの右脇腹を襲った。激しく地面を横転するリオルドが、土煙を舞い上げる。漆黒の尾がゆらりと揺れ、先程までリオルドの居た所に龍が降り立つ。両翼が土煙を巻き上げ、小さな両足の爪が地面へと突き刺さった。口元から僅かに見える牙がキラリと光り、龍がゆっくりと口を開く。
「貴様は何の為に戦う」
「……私には……守るモノがあります……。それだけです」
「無様に地べたに這い蹲っても守るべきモノなのか?」
「それが、私が父とかわした――」
「なら、我が力を貸す。だが、一つ条件がある」
龍の口が僅かに動き、フレイストにしか聞こえない声で何かを告げた。その言葉にフレイストは静かに頷く。すると、龍が両翼を羽ばたかせもう一度宙に舞い、『我が名はフェレス。契約だ』と、告げその姿を変貌させる。