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6.支援員の限界

 平日の午後、「ひだまり広場」の片隅に、周囲の親子の笑い声から切り離されたような、重苦しい静寂が漂っていた。


 最近、毎日のように姿を見せる20代の遠藤さん。その姿は痛々しいほどにやつれ、着ているシャツは何度も洗濯を繰り返して生地が薄くなり、襟元はよれ、髪も整えられないまま後ろで無造作に束ねられている。


 彼女の膝の上では、1歳のルナちゃんが、激しく泣き叫んでいた。しかし、遠藤さんはあやそうともせず、ただ虚ろな目で床の一点を見つめている。


 悠真は胸騒ぎを覚え、「ルナちゃん、こんにちは!今日も元気ですね」と精一杯明るい声を出しながら、赤ん坊の頭をそっと撫でようと手を伸ばした。


 その瞬間だった。ルナちゃんはまるで見えない刃物を向けられたかのように、小さな体をびくりと硬直させ、顔を背けた。その怯えきった反応に、悠真の指先が凍りつく。母親の遠藤さんもまた、弾かれたように肩を震わせ、ルナちゃんを隠そうとするように、ぎゅっと強く抱きしめた。



 悠真は確信した。「普通じゃない。僕がなんとかしなきゃいけない」と。これまでの経験を経て少しずつ自信をつけていた悠真は、彼女のために、子どものために、自分の出来る限りのことをしようと強く意気込んだ。


 遠藤さんは、悠真が隣に座ると、途切れ途切れに窮状をこぼし始めた。未婚の母として出産したが、頼れる身内は一人もいない。


「お金がなくて……。服を買うどころか、毎日を生きるのが精一杯なんです。時々子どもといることも苦しくなって…」


「たまには、ファミリーサポートや、一時預かりも利用してみてはどうですか?」


「それもお金がかかりますよね…。保育園にも預けられず、働くこともできなくて。私は、この子と一緒に消えてしまうしかないんでしょうか……」


 絶望の淵に立つ彼女を前に、悠真の「正論」は影を潜め、代わりに「僕がこの親子を救い出すんだ」という、正義感に似た危うい使命感が燃え上がった。


「遠藤さん、何かあったら僕に何でも話してください。僕が力になりますから。毎日でもここに来ていいんですよ、僕がずっとお話を聞きます!」


 悠真は休憩時間も削って彼女の隣に座り続け、彼女の絶望と、子どもへの虐待の気配をすべて一人で受け止めようとした。しかし、その悩みはあまりに深い。


 次第に悠真は、家に帰ってからもスマホの通知に怯え、寝ても覚めても、ルナちゃんの泣き声と、遠藤さんの声が耳から離れなくなっていった。悠真自身の顔から生気が消え、食欲も睡眠も失われていく。彼は今、彼女を救うどころか、彼女と一緒に底なしの沼に沈みかけていた。


 *


 月に一度のスタッフミーティング。「ひだまり広場」の閉館時、円卓を囲んでスタッフたちが顔を揃える。新しい支援制度の共有、遊具の衛生管理、行政との連携強化……議題がひと通り片付いたところで、瞳子が手元の資料を置き、表情を引き締めた。


「最後に『気になること』について共有しましょう。最近頻繁に来館されている遠藤さんと、ルナちゃんについてです」


 その名前が出た瞬間、悠真の背筋がこわばった。


「彼女、着ているものもボロボロだし、食事も十分に摂れているのか……」


「ルナちゃんの様子も気になります。私が頭を撫でようとしたら、ひどく怯えてのけぞったんです。家庭内での虐待の可能性も否定できません」


「保健師さんを呼んで、一度家庭訪問を検討してもらってはどうでしょう」


「生活保護の申請や、緊急一時保護も視野に入れたほうがいいかもしれないわ。児童相談所との情報共有も急ぎましょう」


 ベテランスタッフたちから次々と具体的な支援案が出される中、悠真は焦燥感に駆られて口を挟んだ。


「あの……遠藤さんのことは、僕がいつも話を聞いています! 彼女、僕には心を開き始めているんです。だから、僕がもっと寄り添って、時間をかけて信頼関係を作れば、きっとなんとか……」


「悠真くん」


 瞳子の静かな、しかし有無を言わせぬ声が悠真の言葉を遮った。


「悠真くん。遠藤さんのケース、一人で抱え込みすぎよ。彼女を心配するあなたの優しさはわかるけれど、今のあなたは、彼女と一緒に溺れようとしているわ」


 悠真は息を呑んだ。瞳子の眼差しは、「彼女のために!」と躍起になっていた自分の「傲慢さ」を見透かしているようだった。


「私たちは、彼女の人生のすべてを背負うことはできないの。家庭内の暴力や経済的な困窮は、個人の善意で解決できるほど浅い問題じゃない。いい、悠真くん。適切な機関に繋ぐことは、見捨てることじゃないの。彼女とルナちゃんを、より安全な場所へ導くための責任なのよ」


 瞳子の言葉は、重く冷たく、そして温かく悠真の心に響いた。


 *


 翌日、来館した遠藤さんに対し、悠真は瞳子や他のスタッフが見守る中で、静かに切り出した。


「遠藤さん。毎日お話ししてくださって、本当にありがとうございます。でも、遠藤さんとルナちゃんが今抱えている問題は、僕一人で受け止めるにはあまりに大きすぎました。だから、今日は生活のことや、二人の安全を一緒に考えてくれる専門の相談員さんに来てもらっています。一緒に、お話ししてみませんか? 僕も、ずっとそばにいますから」


 遠藤さんは一瞬、裏切られたかのような怯えを瞳に浮かべたが、悠真の真っ直ぐな眼差しを見て、小さく頷いた。



 適切な機関への引き継ぎを終え、遠藤さんとルナちゃんは行政のサポートを受けることになった。その日、彼女たちを見送った後、悠真は大きく息を吐き出した。


「……怖かったです。僕が手を離したら、二人がもっと悪い方向へ、取り返しのつかない場所へ行ってしまうんじゃないかって」


 絞り出すような悠真の言葉に、瞳子は穏やかに、しかし断固とした口調で応えた。


「手を離したんじゃないわ。もっと太くて、たくさんの人が握っている頑丈な命綱に、彼女たちを繋ぎ直したのよ」


 瞳子が淹れてくれたお茶の温かさが、こわばっていた悠真の身体にゆっくりと染み渡っていく。


「いい、悠真くん。自分の限界を知ること、そして全てを自分一人で抱え込まないこと。それはね、子育ても、私たちの子育て支援も全く同じなの。何でも一人で背負おうとすれば、いつか必ず無理が来て、守りたいものも守れなくなってしまう。適切に周りを頼り、専門家の手を借りることは、決して逃げじゃない。それもまた、大切な『支援』の形なのよ」


 悠真は、温かい湯気の向こうにある瞳子の言葉を噛み締めた。

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