5.変わった子
平日の午後、「ひだまり広場」には穏やかな時間が流れていた。木製のおもちゃが触れ合う音や、子どもたちのたどたどしいお喋りが BGM のように響いている。しかし、その中心から少し離れた窓際の隅に、周囲の喧騒を遮断したかのような静かな一角があった。
そこでは、30代の松本さんが、2歳になったばかりの息子・カイトくんを、祈るような、あるいは何かを恐れるような、ひどく切実な眼差しで見つめていた。
広場の中では、カイトくんと同じ月齢の子どもたちが、「貸して」「だめ」と賑やかにケンカをしながらおままごとをしたり、連結させた木のレールを床いっぱいに繋げたりして、他者や外の世界へとエネルギーを向けている。
対照的に、カイトくんはその輪に加わることはなかった。彼はコルクマットの上に座り込むと、たった一台のミニカーを手に取り、そのままコトリと横倒しにした。そして、小さな人差し指でタイヤを弾き、それが高速で回転する様子を、顔を地面に擦りつけるほどの至近距離で見つめ始めた。
周りで誰が走り回ろうが、どんな大きな声が響こうが、カイトくんには関係なかった。ただひたすらに、回るタイヤの規則的な動きだけを、何分間も、何十分間も、瞬きさえ忘れたような凝視で追い続けていた。
カイトくんの指先がタイヤを回す微かな音だけが、松本さんの耳には、周囲の笑い声よりも何倍も大きく、残酷な違和感として響いているようだった。
悠真は、松本さんの強張った横顔と、カイトくんの独特な遊び方に気づき、言葉を選びながらそっと隣に腰を下ろした。
「カイトくん、すごい集中力ですね。タイヤの回転がそんなに気になるのかな」
松本さんは、悠真の声に弾かれたように肩を震わせると、すがるような目で彼を見上げた。
「あの……やっぱり、この子、変なんでしょうか?おままごとにも混ざれないし、名前を呼んでも振り向かない。私の育て方が悪いんでしょうか。それとも、発達が…」
悠真は保育士としての知識を総動員し、努めて冷静に、そして励ますようなトーンで答えた。
「成長のペースは人それぞれですから、あまり自分を責めないでください。もしどうしてもご不安なら、保健師さんにも繋ぎますし、健診でも相談できますよ。僕たちもいつでも相談に乗ります。早めに現状を知り、適切な支援を始めることは、カイトくんにとっても決してマイナスにはなりませんから」
「……支援。やっぱり、支援をしなきゃいけないくらい、この子は『変』なんですね」
松本さんの表情は、悠真の言葉によってさらに暗く沈んでしまった。「早期発見、早期支援」という支援員としての正論は、松本さんにとっては「わが子が普通ではないという冷たい宣告」として響いてしまったのだ。
*
その日の夕方、悠真は瞳子に複雑な心境を吐露した。
「……良かれと思って、正しい支援の道を提示したつもりでした。でも、僕が言葉を重ねるほど、松本さんはどんどん孤独になっていくように見えたんです」
瞳子は、窓際の花びんの水を替えながら、穏やかに言った。
「悠真くん。まずはお疲れ様。私たち支援員は、医者ではないわ。だから安易に『発達に問題があります』なんて、決して口にしてはいけないの。医療機関で、医師が診断するものだから。でも、いつでも私たちは相談に乗るし医療にも繋げますよ、と伝えたのは良かったわね」
「そ、そうですか……?」
自信なさげに聞き返す悠真に、瞳子は優しく頷いた。
「ええ。ただ、今のお母さんは発達や『支援』という言葉そのものに、とても敏感になっている時期なのかもしれないわ。そういう不安な気持ちに寄り添うことが、何より大切なの。でもね、悠真くん。お母さんが『違和感』に気づくことは、決して悪いことではないのよ。早くに気づいてあげられるのは、それだけ彼女がカイトくんを深く深く見守っている証拠。それは親にしかできない、毎日見ているからこそ光る『観察眼』なのよ」
瞳子は手を止め、悠真を真っ直ぐに見つめた。
「それにね、他の子と違うということは、見方を変えればその子の『個性』であり、『才能』でもあるの。何かに強く執着したり、独特の視点を持っていたり……それは将来、その子を助ける大きな力になる種かもしれないわ。支援というのは、欠点を直して『普通』に当てはめる場所じゃない。その才能をどう伸びやかに育てていくかを、一緒に考える場所なのよ」
「才能……。確かにそうですね。偉大な天才にも、独特なこだわりを持つ人が多いと言います」
「大切なのは、診断名をつけることじゃないわ。その子が今、何を見て、何に心を動かしているのか。そして、寄り添ってくれる味方が、今の彼女には何より必要なのよね」
*
翌週、松本さんが再びやってきた。カイトくんは今日も、砂場の隅でじっと砂の粒を指の間から落とし続けている。悠真は彼女の隣に座り、瞳子の言葉を噛み締めながら口を開いた。
「松本さん、こんにちは。先日お話しした『支援』という言葉、少し突き放すような言い方になってしまってすみませんでした。実はあの後、先輩の瞳子さんといろいろ話したんです」
松本さんは、静かに悠真を見つめた。
「これは瞳子さんの言葉ですが、お母さんがカイトくんの小さな違和感に気づけるのは、それだけ彼を深く見守っている証拠。それは毎日見守っているからこその、素晴らしい『観察眼』なんですよ」
松本さんは驚いたように手を止め、悠真の話に聞き入った。
「それに、カイトくんがこうしてタイヤを回したり、砂粒をじっと見つめたりするこだわり……。それは見方を変えれば、彼にしかない特別な『才能の種』かもしれない、とも言っていました。普通の人には真似できないような集中力や視点を持っている。支援や専門機関というのは、その個性を消すための場所じゃなくて、その才能をどうやって伸ばしていくかを一緒に考えてくれる場所なんです」
「才能……?」
松本さんは、思ってもみなかったというように目を見開いた。彼女の視線の先では、カイトくんが窓から差し込む光の粒を掴もうとするように、空中で小さく指を動かしていた。
「……今まで、この子の『できないこと』ばかり数えて、欠点を見つけるような暗い気持ちで接してしまっていました。でも、才能……そう言ってもらえると、この子が何を見て、何を感じているのか、私も同じ景色を覗いてみたくなります」
松本さんの目から、溜まっていた涙がこぼれ落ちた。それは不安の涙ではなく、わが子を「かわいそうな子」ではなく「一人の人間」として再発見した、安堵の涙だった。
後日、松本さんは少し晴れやかな顔で悠真に報告してくれた。一度保健師に相談し、そこから紹介された専門の医療機関へ足を運んでみたのだという。
「……正直、診断名がつくかもしれない怖さはまだありますし、不安が全部消えたわけではありません。でも、少しでもこの子のことを分かりたいんです」
「はい! またぜひ、僕たちにもお話を聞かせてください。カイトくんの成長を、これからも一緒に見守らせてください」
悠真が力強く頷くと、松本さんは「ありがとうございます」と、今日一番の穏やかな微笑みを見せた。




