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4.理想と現実

 平日の「ひだまり広場」は、朝から多くの親子連れで活気づいていた。子どもたちの無邪気なはしゃぎ声と、それを見守る保護者たちの穏やかな談笑が混じり合い、柔らかな空気が流れている。しかし、その喧騒の中で、悠真は異様な緊張感を放つ一人の母親に目を留めた。20代半ばの川崎さんだ。彼女の傍らには、一歳半になる娘のヒナちゃんが座っている。


 ヒナちゃんは真っ白なワンピースは汚れひとつなく、細い髪は左右対称に、芸術的なほど丁寧に編み込まれている。それはまるで、これから雑誌の撮影にでも向かうかのようであった。対照的に、川崎さんの表情はひどく憔悴していた。透き通るような肌には隠しきれないほど濃い隈があり、その瞳は絶えず手元のスマートフォンを追っている。画面に映し出されているのは、SNSで流れてくる「理想の幼児食レシピ」や「完璧な知育遊び」の投稿だった。彼女はまるで、何かに追われるように指を動かし続け、画面の中の「正解」を必死に手繰り寄せていた。



 ヒナちゃんがおもちゃ箱から積み木を取り出し、しかし違うおもちゃに目移りしたその瞬間だった。川崎さんの顔が、弾かれたように強張った。


「ダメよ、ヒナ。ちゃんとお片付けしてから次のおもちゃよ。できるよね。……ねえ、聞いてる?」


 必死に「完璧な子育て」の型に娘をはめ込もうとする彼女の姿に、悠真は胸が締め付けられるような危うさを感じた。彼は助け舟を出すつもりで、川崎さんの隣に歩み寄った。


「川崎さん、そんなに注意しなくても大丈夫ですよ。もっと肩の力を抜いて、楽に考えましょう。まだ一つのことに集中できない年ごろですから、少しくらい散らかしてもいいんです。完璧を目指すと、川崎さんもヒナちゃんも疲れちゃいますよ」


 悠真としては、彼女を縛り付ける目に見えない鎖を解いてあげたい一心だった。しかし、川崎さんは弾かれたように顔を上げると、潤んだ瞳で悠真を射抜いた。


「……楽にするって、具体的にどうすればいいんですか? 私が手を抜いたら、この子の将来がダメになるかもしれない。夫は帰りが遅くて、私が頑張るしかないのに、これ以上どうしろって言うんですか!」


 震える声でそう告げると、彼女はヒナちゃんをひったくるように抱き上げ、逃げるように広場を去ってしまった。悠真は差し伸べた手のやり場を失い、自分の放った「正論」が、崖っぷちに立つ彼女を突き落とす凶器になったことを悟った。


 *


 終業後、夕闇が迫り始めたガランとした広場で、悠真は所在なく掃除機を動かしていた。機械的な音が止むと、日中の失敗が重くのしかかってくる。悠真は作業の手を止め、瞳子に一部始終を打ち明けた。


「……僕はただ、彼女を楽にしてあげたかっただけなんです。なのに、僕の言葉が彼女をさらに追い詰めてしまった」


 瞳子は、整理棚に散らばったおもちゃを一つずつ拾い上げながら、不意に声を上げて笑った。


「悠真くん、私だってね、川崎さんの気持ちが痛いほどわかるのよ」


「えっ? 瞳子さんがですか?」


 いつも余裕を持って親たちを包み込む瞳子の意外な言葉に、悠真は思わず手を止めた。


「そうよ。長男がまだ小さかった頃、私は育児書をバイブルにして、そこに書かれている通りに『あれもしなきゃ、これもしなきゃ』って自分を縛り付けていたわ。子どもは親のしつけ次第でどうにでもなる、完璧に育て上げなきゃいけないって、どこかで思い込んでいたのね」


 瞳子は手に持っていた木製のおもちゃを見つめ、懐かしそうに目を細めた。


「でもある日、糸が切れたみたいにどうにもならない日があったの。寝不足と疲れで、掃除もできず、ごはんも作れず……ただ散らかった部屋の真ん中で、ぼーっと座り込んでいたわ。そうしたらね、当時まだ幼かった長男が、私の顔をのぞき込んで言ったの。『お母さん、大丈夫?』って。その一言を聞いた瞬間、何だかもう情けなくて、申し訳なくて……。子どもを抱きしめたまま、声をあげて泣いちゃったのよ」


 瞳子は穏やかな笑みを浮かべ、続けた。


「でもね、その時やっと気づけたの。ああ、完璧じゃなくてもいいんだ、って。部屋が汚れていても、ごはんが手抜きでも、この子が隣で楽しそうに笑っていれば、それでいい。悠真くん、自分を追い込んで苦しくなってしまう親はね、真面目で、一生懸命な頑張り屋さんなの。『正論』も時には大切だけれど、当時の私が必要だったのは、『あなたは十分よく頑張っているね』と、そのままの自分を認めてもらう言葉だったのよね」


 *


 翌日、川崎さんが再び広場に姿を見せた。昨日のことを気に病んでいるのか、どこか申し訳なさそうな、自信のない足取りだった。悠真は、彼女がヒナちゃんに知育パズルをさせている横に、静かに、そして同じ目線の高さで腰を下ろした。


「……川崎さん。昨日、偉そうなことを言ってすみませんでした。実は僕、保育園の実習生だった頃、とんでもない大失敗をしたことがあるんです」


 川崎さんが意外そうな顔で、ふっと顔を上げた。


「『子どものために頑張らなきゃ!』と空回りしてしまって……。いいところを見せようと、鉄棒で逆上がりを披露したんです。そうしたら、勢い余って靴が片方脱げて、運悪く園長先生の頭に直撃しちゃって。子どもたちは大爆笑だし、僕は顔から火が出るほど真っ赤になって。あの時は、自分はもうこの仕事に向いていないって、本気で落ち込みました」


 悠真が恥ずかしそうに頭をかきながら告白すると、川崎さんの口元が微かに、本当に微かに緩んだ。目の前の「完璧に見える先生」も、自分と同じように失敗し、情けない思いをしてきたのだと知った瞬間、彼女を包んでいた硬い空気がわずかに解けた。


「子どものために『ああしなきゃ、こうしなきゃ』という情報は、今やSNSを開けば溢れていますよね。でも、ヒナちゃんがこうして元気に笑って育っているのは、紛れもなく川崎さんの日頃のお世話があってこそです。子どもを一人育てるのがどれだけ壮絶で大変なことか、僕はまだ分かっていないかもしれません。けれど、川崎さんが無理をして体を壊してしまっては、元も子もありません。どうか、ご自分を大切にしてください」


 川崎さんはパズルを動かす手を止め、絞り出すような声で言った。


「私……子育て、ちゃんとできているんでしょうか? 実は昨日の夜、どうしても疲れてごはんが作れなくて、全部レトルトにしたんです。フォロワーさんたちはみんな手作りでキラキラしているのに、自分だけ手を抜いてしまったって、すごく罪悪感があって……」


「たまにはいいじゃないですか。僕だって一人暮らしですけど、たまにカップラーメンが無性に食べたくなりますよ」


「……ふふ、わかります。ジャンクなものが欲しくなる時、ありますよね」


 川崎さんの声に、少しだけ生気が戻った。


「僕だって、毎日自炊なんて正直しんどいです。だから、しんどい時はもっと周りを頼っていいと思うんです。一時預かりやファミリーサポート、家事サポートだってあります。ここには子育てワークショップもあるし、僕らスタッフもいます。一人で全部背負わなくていいんですよ。……川崎さん、本当に、毎日お疲れ様です」


 悠真が穏やかに笑うと、川崎さんは深く、重い息を吐き出した。それは、これまで彼女を縛り付けていた「理想の母親像」という呪縛を、少しずつ外に出していくような吐息だった。


「完璧なママ」という、重く冷たい鎧を少しだけ下ろした川崎さんは、ヒナちゃんがおもちゃを散らかしたまま遊ぶのを、昨日よりは穏やかな目で見守れるようになっていた。膝に乗ってきたヒナちゃんの乱れた髪を、彼女は愛おしそうに撫でた。

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