2.子育てワークショップ
「ギャーーー! いーやーだーーー!」
『ひだまり広場』の静かな午後に、雷鳴のような叫び声が響き渡った。
2歳のタクトくんと、疲れ果てた表情の母親・佐々木さん。タクトくんは床にひっくり返り、まるで魚のように跳ねて全身で拒絶を示している。理由は「帰る前に靴下を履きたくない」という、大人から見れば些細なことだった。
「タクト、お願いだから……もう帰る時間なの……」
佐々木さんの声は震え、周囲の視線を気にして肩をすぼめている。
悠真は「今こそ出番だ」とばかりに、爽やかな笑顔で駆け寄った。
「佐々木さん、大変そうですね。でも大丈夫ですよ。イヤイヤ期は『成長の証』ですから! 自分でやりたいという自我が芽生えてきた証拠。喜ばしいことなんですよ」
悠真は、保育の教科書に書いてある「正解」を伝えた。 しかし、佐々木さんは顔を上げると、今にも泣きそうな、それでいて鋭い眼差しで悠真を射抜いた。
「……成長の証なのは、分かってます。でも、毎日毎日これなんです。家でも、スーパーでも。私の心は、ちっとも喜ばしくなんてないんです!」
佐々木さんは無理やりタクトくんを抱き抱えると、逃げるように広場を去っていった。悠真の「正論」は、彼女にとって救いではなく、追い詰められた心への「追い打ち」になってしまった。
*
「……また、やってしまいました」
仕事終わり。悠真は事務室で、自分の頭を抱えていた。
「『成長の証』。間違ったことは言ってないはずなのに、佐々木さんのあんなに辛そうな顔、初めて見ました」
瞳子は、お茶を淹れながら静かに言った。
「悠真くん。溺れている人に『泳ぎの理論』を説いても意味がないのよ。まずは浮き輪を投げてあげないと」
「浮き輪、ですか……」
「ええ。彼女に必要なのは、知識じゃなくて『仲間』と『息抜き』。ちょうど来週、月1回の『子育てワークショップ』があるわ。テーマはイヤイヤ期。彼女を誘ってみたらどうかしら?」
*
翌週、悠真は勇気を出して佐々木さんを誘った。彼女は戸惑っていたが、悠真の「先日はすみませんでした。僕も一緒に勉強させてください」という真っ直ぐな言葉に、重い腰を上げた。
ワークショップの進行役は瞳子が務める。
「皆さん、今日は短い時間ですが、美味しいお茶とお菓子でリラックスしてくださいね。話したくないことは話さなくていいですよ。みんなの話を聞くだけでも大丈夫。まずは、簡単な自己紹介と最近のマイブームなんかをグループで教え合ってくださいね」
瞳子の明るい進行で、重かった空気が少しずつ解けていく。グループワークが始まると、イヤイヤ期の子を持つ親たちの「本音」が溢れ出した。
「うちはもう、リビングに足の踏み場がないです。積み木とトミカが地雷みたいに埋まってて……」
「わかります! うちは昨日、納豆を壁に塗られました。もう笑うしかなくて」
「うちは牛乳ぶちまけられました……」
佐々木さんが、恐る恐る口を開いた。
「……私は、スーパーの床で泣き叫ぶ息子を見て、このまま置いて帰りたくなってしまったことがあります。母親なのに、最低ですよね……」
すると、隣に座っていた母親が、大きく頷いた。
「私もですよ! 『もう知らない!』ってトイレに閉じこもって、10分間アイス食べたことありますもん。みんな、同じですよ」
ワークショップが終わった後、参加者たちの表情は、来る前とは違い、ほんの少し晴れやかだった。
「とても参考になりました。解決策が見つかったわけじゃないけど、みんな同じ気持ちなんだって分かっただけで、明日からまた頑張れそうです」
「家がぐちゃぐちゃなのはうちだけだと思ってたから、救われました(笑)」
そんな感想を聞きながら、悠真は佐々木さんの元へ歩み寄った。彼女も少しだけ、柔らかな表情をしていた。
「佐々木さん、お疲れ様でした」
「長谷川さん。さっき、他のお母さんの話を聞いていて……。タクトが暴れるのは、私の育て方のせいじゃないんだって、ようやく思えました」
「佐々木さん……」
「『成長の証』って言葉、今は少しだけ、素直に聞ける気がします。余裕のない時に言われると、なんだか私がダメな親だって言われているみたいで、あのときはごめんなさい」
悠真は首を振った。
「いいえ、僕もすみませんでした。皆さんの話を聞いて、イヤイヤ期の壮絶さを知ることができました。そんな嵐の中で子育てされている方って、本当にすごいです!」
夕暮れの広場。 帰り際、タクトくんがまた「帰りたくない!」と座り込んだ。しかし、佐々木さんは青ざめることはなかった。隣にいた他のお母さんと「また始まったね」「お互い様ね」と笑い合いながら、ゆっくりと向き合っていた。




