1.魔法の自己紹介
「……よし」
長谷川悠真(25)は、真新しいエプロンの紐をキリリと結び直し、鏡に向かって一つ頷いた。 今日から配属されたのは、市が運営する子育て支援拠点『ひだまり広場』。これまでは保育園で「先生」として走り回っていたが、ここは少し毛色が違う。未就園児とその保護者が一緒に過ごし、親同士が交流したり、育児の悩みを相談したりする場所だ。
「悠真くん、今日からよろしく。肩の力を抜いてね」
背後から声をかけたのは、教育係の真壁瞳子(50代)だ。ふくよかな笑顔と、すべてを見透かすような穏やかな瞳。彼女はこの道20年のベテラン支援員で、地域のお母さんたちからは「魔法使い」とまで慕われている。
「はい! 子どもたちと遊ぶのは任せてください。5人兄弟の長男ですから、体力には自信があります」
「ふふ、頼もしいわね。でもここはね、子どもだけじゃなく『お母さんの心』も預かる場所なのよ」
開館の時刻だ。悠真は意気揚々とフロアへ飛び出した。
一時間も経つと、広場は親子連れで賑わい始めた。 悠真の実力は本物だった。積み木が崩れて泣きそうな子がいれば、絶妙なタイミングで「おっ、新しいタワーの材料が届きましたよ!」と参戦し、走り回る子がいれば、外で追いかけっこをして笑顔にする。子どもたちはあっという間に「ゆうまお兄さん」に懐いた。
しかし、ふと視線を上げると、悠真の動きが止まる。 壁際に座り、子どもを見守る母親たち。スマホを眺めている人、ぼーっと遠くを見ている人、疲れ切った顔で我が子を追っている人。
(……話しかけなきゃ。それが支援員の仕事だ)
悠真はマニュアルを頭の中で反芻した。『まずは共感的な声掛けを』『体調や育児の様子を伺う』。 ターゲットを定めた。入り口近くで、生後8ヶ月ほどの赤ちゃんを抱っこしたまま、所在なさげに座っている若い女性だ。
「こんにちは! 今日は初めてですか?」
悠真は、保育園で培った「爽やかな先生スマイル」を炸裂させた。
「あ……はい。先月、引っ越してきたばかりで……」
「そうなんですね! お名前は? 月齢は? 離乳食は進んでますか?」
「ええと、ハルトと言います。8ヶ月で……離乳食は、あんまり食べなくて」
「そうですか。8ヶ月なら、二回食ですよね。味付けを工夫したり、食感を変えてみるといいですよ。栄養バランスも大事ですから」
悠真は良かれと思って、完璧な「正論」を述べた。しかし、母親の表情はパッと明るくなるどころか、逆に少し強張ったように見えた。
「はぁ……。頑張ってはいるんですけど……」
「大丈夫です! 頑張れば必ず食べるようになりますから」
会話が、死んだ。 母親は「ありがとうございます」と小さく呟くと、逃げるように赤ちゃんを連れておもちゃコーナーへ移動してしまった。
その後も、悠真の空回りは続いた。
「夜泣きがひどくて」とこぼす母親には「日中の活動量を増やして、規則正しい生活をすれば治りますよ!」と即答。
「自分の時間がなくて」という愚痴には「今は今しかないので、楽しんだほうがいいですよ!」と励ます。
そのたびに、母親たちの顔から表情が消えていく。悠真の周りには、元気な子どもたちと、それとは対照的な「冷ややかな沈黙」が漂っていた。
*
「すみませんでした……」
閉館後の夕暮れ。片付けを終えた悠真は、フロアの隅でガックリと肩を落としていた。
「悠真くん、お疲れ様。子どもたちに大人気だったじゃない」
瞳子が温かいお茶を差し出してくれる。
「……ダメです。子どもとは遊べても、お母さんたちとは、全然会話が続きません。僕が何か言うたびに、壁ができる感じがして」
悠真は拳を握りしめた。
「結局、僕は結婚もしてないし、自分の子どももいない。夜泣きで眠れない苦しみも、離乳食を食べない焦りも、本当の意味ではわからないんです。そんな奴がアドバイスしたって、薄っぺらいですよね……」
瞳子は否定も肯定もせず、窓の外を見つめた。
「悠真くん。あなたは今日、お母さんたちのことを知ろうとして、質問攻めにしちゃったんじゃない?」
「え……。だって、相手のことを知るのが基本ですよね?」
「そうね。でもね、得体の知れない相手に、自分の弱みや本音を話せる人はいないわ。悠真くんは、自分のことを何て紹介したの?」
「自己紹介? 『新しく入った支援員の長谷川です』としか……」
瞳子はクスッと笑って、悠真の目をじっと見た。
「いい? 支援員は『先生』ではない、『一人の人間』なの。相手のことを聞くばかりじゃなくて、まずは自分の自己紹介をしてみて。それも、ただの名前じゃなくて、あなたの内面が伝わるような自己紹介を」
*
翌日。昨日と同じ、あの8ヶ月のハルトくんのお母さんがやってきた。彼女は今日も、どこか居心地が悪そうに部屋の隅に座っている。
悠真は緊張で心臓がバクバクしていた。マニュアルは、一度脳内ゴミ箱に捨てよう。 彼はハルトくんの隣に座り、母親の目を見て、少し照れくさそうに笑った。
「あの、ハルトくんのお母さん。昨日、偉そうなこと言っちゃってすみませんでした」
「えっ?」
「実は僕、男ばかりの5人兄弟の長男で。毎日が戦場みたいな家で育ったんです。母はいつも髪を振り乱して怒鳴ってたし、僕も下の子のオムツ替えさせられて……正直、当時は『もう嫌だ!』って思ってました」
母親の目が、わずかに動いた。
「だから、お母さんが離乳食を食べてくれないって言ったとき、見栄を張って、教科書みたいな答えをしちゃいました。僕は、独身だし、親でもないですけど……子どもに振り回されて自分の時間がなくなる感覚だけは、実体験として知ってるつもりです」
沈黙が流れる。悠真は「また失敗したか」と顔を伏せそうになった。 すると、母親がポツリと口を開いた。
「……5人兄弟、ですか」
「はい。壁に穴は開いてるし、茶碗は欠けてるし、おかずは早い者勝ち。無茶苦茶でしたよ」
「あの……。実は私、二人目を迷っていて。でも、一人目でもういっぱいいっぱいで。兄弟がいて、長谷川さんはどうでした? 楽しかったり、寂しかったりしましたか?」
悠真は、ハルトくんが握っているおもちゃを優しく見つめた。
「寂しいっていうより……騒がしすぎて一人の時間が欲しかったです。でも、一緒にごはんを食べたり、物を取り合ったり、本気でケンカしたり、でも数日のうちに仲直りしたり、そういうことって友達でもできるけど、より近い兄弟だともっとできるというか。母は大変そうでしたけど……、僕が保育士になろうと思ったのもその経験があったからなんです」
お母さんの表情が、ふわりと緩んだ。
「そっか……。そうやってたくさんの経験ができるんですね。長谷川さんって、先生っていうより、近所の頼りになるお兄ちゃんみたいですね」
「あはは、それ、最高の褒め言葉です!」
気づけば、周りにいた他のお母さんたちも会話に入ってきていた。
「へぇー、5人! お母さん、どうやって洗濯回してたの?」
「一日に4回ですよ。乾燥機なんてなかったから、家の中がクリーニング屋みたいで」
「うわー、想像しただけで気絶しそう!」
広場に、温かい笑い声が広がる。 悠真はふと視線を感じて振り返った。入り口の近くで、瞳子が笑顔で頷いていた。
*
その日の終わり、悠真は日誌にこう記した。
『完璧な正論よりも、不完全な自分の経験が、誰かの心を溶かすこともある』
「悠真くん、よかったわね」
瞳子が帰り際、彼の肩をポンと叩いた。
「あ、ありがとうございます。僕、なんとなくわかりました。お母さんたちが求めているのは、解決策だけじゃなくて、そこに至るまでの過程とか、気持ちとか、話せることなのかなって」
「うふふ、いいわね。今インターネットには調べれば解決策はたくさん出てくるわ。でも生の体験談や、そのときの気持ちはやっぱり人から聞くのが一番なのよね」
二人の笑い声が、夕暮れの支援拠点に響いた。 「先生」ではなく「長谷川悠真」として。彼の本当の支援員生活は、ここから始まったのだ。




