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第9話:恋愛は魂の詩である

青の屋敷から宮廷の大広間へ続く回廊は、夜の光で満ちていた。百を超える燭台の炎が、鏡張りの壁に反射し、星空のような輝きを作る。


音楽は、ヴァイオリンとチェンバロの緩やかなアレグロ。貴族たちの衣擦れと笑い声が、波のように押し寄せては引いていく。


シゼットは、緊張と熱に頬を染めながら、広間の片隅に立っていた。


薄い青のドレスは、夜会のために仕立てられたもので、胸元から流れる刺繍が銀河のように煌めく。


紅い瞳の彼が、広間の向こうから歩いてくるのを見た瞬間、胸の鼓動が一段と速くなった。

「お待たせしました」

ジュリオ・アルディアン。


侯爵の微笑みは、炎よりも甘く、刃よりも鋭い。

彼は何の前触れもなく手を差し出した。

「踊っていただけますか、シゼット嬢」


「……はい」


◇◆


音楽が変わり、二人は中央の舞踏の輪へ入っていった。彼の手が腰に添えられ、もう一方の手がそっと自分の指を包む。足取りは軽やかで、だが一歩ごとに彼との距離は確実に縮まっていく。


視界の端で、リゼ・ヴァレンティアの金の髪が揺れる。


だが今夜、この瞬間だけは、何者も二人を引き離せない。


ジュリオの視線が、炎のように真っ直ぐ自分を射抜いていた。


「……詩を踊るようだ」

耳元で囁かれたその言葉に、心臓が跳ねる。


「詩?」


「あなたの瞳が、今夜はそう語っている」


◇◆


曲が終わると、ジュリオは手を離さずに広間の出口へと導いた。人々の視線とざわめきが背後に遠ざかっていく。


辿り着いたのは、薄暗い書庫だった。


「……ここは」


「今夜、あなたと話すために準備した」


静寂の中、蝋燭の灯が二人の影を壁に揺らめかせる。


ジュリオは机の上に置かれた詩集を手に取り、ページを開いた。

「恋愛は魂の詩である──そう書かれている」


「……本当に、そう思うのですか」


「少なくとも、あなたと出会ってからはそうだ」

ページの上に重なるように、彼の手が自分の手に触れる。


その指先から、炎のような熱が広がっていく。


◇◆


唇が触れたのは、ほとんど偶然のようだった。

だが、その瞬間から世界は形を変えた。


甘く、痛く、息が溶けていくような感覚。


抱き寄せられた肩越しに、蝋燭の炎が滲む。


「シゼット……」

名を呼ぶ声が、胸の奥に直接響く。


彼の鼓動が、自分の鼓動と重なり、やがて区別がつかなくなった。


互いの熱と熱が交わり、夜は深く、静かに流れた。


彼の手が頬をなぞる。その軌跡に、微かな熱と、言葉にならない優しさが残る。唇が再び重なったとき、外の世界は遠のいた。


壁一面の古書の背表紙が、蝋燭の光を受けて黄金色に沈黙している。まるで千冊の物語が、この一瞬のために黙して見守っているようだった。


肩越しに感じる彼の呼吸は、一定のリズムを刻みながらも、どこか乱れている。その不揃いが、むしろ愛おしかった。


指先が背の曲線をなぞり、布越しに伝わる熱が、じわりと広がる。


耳元で名を呼ばれるたび、その音は胸の奥深くまで沈み、心の形を変えていく。


蝋燭の炎が揺れ、影が絡まり合う。


時は、ページをめくる音もなく止まり、二人だけの詩が書かれていく。


触れ合う場所すべてが、一行、一句──この夜を紡ぐための言葉になった。


触れ合うたびに輪郭は溶け、彼の中に溶けていく自分を感じた。もはや境はなく、名もない熱と震えが全身を駆け巡る。


それは痛みではなく、慰めでもなく、ただ一つの恍惚──この夜、わたしはわたしでありながら、彼そのものになった。


◇◆


窓から薄い光が差し込む。


乱れた髪を指で整えながら、シゼットは彼の瞳を見つめた。穏やかに見つめ合う表情は、宮廷で見せる鋭さとはまるで別人のようだ。


(幸福って、こんなに怖いものだったかしら)


胸の奥に、不安が小さな棘のように刺さっている。


この瞬間が永遠ではないことを、直感で知っているから。


彼が、少しだけ、微笑んだ。

「美しい……」


その声だけで、不安は一瞬かき消される。


だが同時に、消えたはずの棘はさらに奥へと沈んでいった。夜会の喧騒は、まだ大広間の天井に余韻を残していた。

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