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第8話:わたしはジュリアンじゃない

夜更けの書庫は、静寂という名の深い海に沈んでいた。天井まで届く書棚の影が、月明かりを受けて細く揺れる。


机の上には、開かれたままの一冊──『赤と黒』。


シゼットはそのページを指先でなぞりながら、何度も同じ一節を読み返していた。


「ジュリアンは、己が愛のために全てを賭け、そして破滅を選んだ。」


胸がざわめく。


恋の熱に浮かされ、階級を越え、やがて裁きの場に立つ若者。あまりにも、今の自分に似すぎている。


(私は……ジュリアンじゃない。そうであってはいけない)


だが、否定すればするほど、その影は濃くなっていく。


ジュリオの紅い瞳、触れた指先の熱、耳に残る低い声──。それらは確かに、彼女の中で結晶化しつつあった。


◇◆


翌朝、庭園を歩いていると、冬の陽光の下に黒衣の影が立っていた。


セルジュ・カノン。


「こんな寒い日に外を?」と問うと、彼は「陽は短い。逃すのは惜しい」と答えた。


その声は、凍てつく空気に馴染みすぎて、温度を持たない。

「また会いましたね、シゼット嬢」


「……はい」

沈黙の間に、彼の灰色の瞳がこちらを射抜く。まるで心の奥を覗き込み、引き出そうとするように。


「まだ、あの方と距離を詰めているようだ」


「……それは」


「やめなさい。あれは、あなたを救わない」

その言葉は、真冬の空気よりも冷たかった。


◇◆


「あなたは、恋を知らないからそんなことが言えるのよ」──そう言い返したかった。


だが、口は動かない。


言葉にした瞬間、なぜか自分のほうが間違っているように思えてしまうから。


セルジュは一歩近づき、低く囁く。

「私は、恋に溺れて沈んでいった者を何人も見てきた。彼らは夢から覚める前に、底に着いた」


「……それでも」


「それでも、か。ならば、せめて覚えておくといい。愛は、熱いうちに壊れる」


龍族の血を遠くに引くと噂される彼の黒灰色の瞳は、冷たくも哀しげに揺れた。それは、彼自身がかつて何かを失ったことを示す色だった。


◇◆


部屋に戻っても、胸のざわめきは収まらなかった。


机に『恋愛論』を広げる。


結晶化、熱狂、そして喪失──スタンダールが描いた恋の軌跡。


(……まるで私の地図みたい)


ジュリオとの時間は、確かに赤く輝いている。でも、その先にあるのは真っ黒い世界──終わりと空虚。


恐怖が、背中を這い上がってくる。もし私がジュリアンのように破滅するなら……。


(でも、破滅を恐れて恋をやめたら、それは恋じゃなくなるのでは?)


◇◆


夜、廊下を歩いていると、偶然ジュリオとすれ違った。白いシャツに黒の上着、その胸元に光る銀のブローチ。紅い瞳が、こちらを見てわずかに細められる。


「眠れないのか?」


「……少し、考え事を」


 彼は笑みを浮かべ、歩調を合わせてくる。

「なら、暖炉のある部屋に行こう。話をしよう」


暖炉の前で向かい合うと、薪の爆ぜる音が心臓の鼓動に重なる。


シゼットは、言葉を選ばずに口を開いた。

「……わたし、ジュリアン・ソレルにはなりたくないの」


「ジュリアン?」


「古い物語の登場人物。愛のために全てを失った人」


「それは……幸せではなかったのか?」


「最後には、処刑されたわ」


沈黙が落ちる。


ジュリオは少しの間、炎を見つめ、それから低く語り出した。


「スタンダールは……彼をただの愚か者として描いたと思うか? いや、違うだろう。彼は、恋が結晶化していく過程の中で、自分のすべてを燃やしたんだ。結末よりも、その燃焼の軌跡こそが物語だった」


シゼットは息を呑む。紅い瞳が、炎と同じ熱を宿していた。


「もし彼が愛を恐れて引き返していたなら、『赤と黒』はただの灰色の話になっていただろう。だが彼は『赤』を選んだ。燃え尽きてこそ、美しいのだ」


「……それは、肯定なの?」


「肯定でも否定でもない。ただ、人は生き方を選ぶ。彼は『赤』を選んだ。それだけのことだ」


その声は、どこまでも真っ直ぐだった。


炎に照らされたジュリオの横顔は、恐怖を溶かすように力強く、温かかった。


◇◆


その夜、シゼットは決めた。

逃げる道があっても、振り返らない。


この短い幸福を、最後まで抱きしめて生きる。

たとえその先に、黒い世界が待っていても──。

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