第7話:黒と赤の間で
その日、青の屋敷には珍しく、宮廷からの来客があった。
正午を告げる鐘が鳴り、白い石畳の中庭に黒い法衣の男が姿を現す。
彼は背が高く、銀糸を織り込んだような黒髪を後ろで束ねていた。
切れ長の瞳は、深い灰色──いや、光の加減によっては、底なしの黒にも見える。
人間のそれにしては、あまりにも澄みすぎていた。
「セルジュ・カノン神官閣下、お越しです」
執事が恭しく告げる声が響く。
シゼットは玄関ホールの片隅から、その男を見つめていた。
彼は、視線を巡らせることなく、まっすぐに歩いてくる。その歩みは、まるで周囲の装飾や人々が存在しないかのように静かだ。
◇◆
客間での紹介は、形式的だった。
「こちら、教育係のシゼット・クロワ嬢」
「初めまして」
「……」
握手も、微笑みもなかった。
セルジュはただ、じっとシゼットを見た。何かを見抜かれてしまいそうだった。
その眼差しは、礼儀という包装紙を剥がして、中身を直接確かめようとするかのようだった。
「あなた……この世界の人間ではないですね」
喉が詰まった。
声を出そうとしても、息が引っかかる。
「……どういう意味でしょう」
「顔ではなく、目が答えています。恋を知る前の目ではない。けれど、恋を信じ切ってもいない」
シゼットは返事に窮した。
その分析は、彼女の胸の奥に潜む雫の記憶に、鋭く触れていた。
◇◆
面会の目的は、ジュリオへの儀礼的な挨拶だと説明された。
だが、セルジュは帰り際、廊下の途中でふと立ち止まり、振り返った。
「シゼット・クロワ嬢。恋は幻です」
「……幻?」
「熱に浮かされた者が見る夢。目が覚めれば、何も残らない。それどころか、時にあなたを殺す」
「……殺す?」
「恋は救いにはならない。あなたが救いを求めるなら、別の道を探しなさい」
淡々とした口調だった。
警告というより、単なる事実を述べているような響き。
シゼットは、唇の裏側を噛みしめた。
心の中では、何かが強く反発していた。
──けれど、その反論を言葉にすることはできなかった。
◇◆
それから数日。
ジュリオとの会話や、書庫での穏やかな時間の中にも、セルジュの言葉が時折よぎった。
(恋は、幻……)
確かに、この屋敷での自分は変わった。ドレスを着て、人前で微笑み、詩を語る。
けれど、それらはすべて借り物なのではないか。もし恋が終われば、自分は何も残らないのではないか。
──そんな不安を抱えたまま、職務は続いた。
◇◆
その日の午後、シゼットはジュリオの妹君に歴史の授業をしていた。
しかし、窓から見える庭の赤いバラを見た瞬間、彼の紅い瞳を思い出してしまう。
「……シゼット先生?」
「え、あ……失礼しました。続けましょう」
言葉を繋ぎながらも、心はどこか揺らいでいた。
赤は、情熱の色。
黒は、理性の色。
セルジュはその黒の側から、自分を見ていた。
◇◆
授業を終え、廊下に出たとき、セルジュが立っていた。
「また、お会いしましたね」
「……今日は、どのようなご用件で?」
「告解に来た。だが、あなたにもひとつ、言っておきたいことがある」
「何でしょう」
「もしあなたが、本当に愛しているなら……必ず、逃げなさい」
「逃げる?」
「愛は守るものではなく、守られるものでもない。愛は、壊れる前に置き去りにするものだ」
シゼットは息を呑んだ。
その言葉は、彼女の中の“ジュリオと過ごす未来”の像を、ためらいなく切り裂くものだった。
「……わたしは、まだ信じます」それだけを言い残し、彼女は背を向けた。
セルジュの視線が、最後まで背中に刺さっていた。
◇◆
夜、書庫で独り本を読む。
ページをめくる指先に、あの日、ジュリオが触れた温もりが蘇る。
──あれは幻だったのか、それとも炎の始まりだったのか。
シゼットは本を閉じ、目を伏せた。
赤と黒。その間に立つ自分が、どちらにも踏み切れずにいることを、痛いほど自覚していた。