第6話:密やかな炎
その夜、青の屋敷は冬の冷気に包まれていた。
外の庭園では枝も葉も凍りつき、噴水の水音すら途絶えている。
しかし、暖炉のある応接室だけは、別世界のように暖かかった。
炎は赤い舌を揺らし、木の香りを空気に混ぜている。
その光が、ソファに座るシゼットの頬をやわらかく照らした。
向かいには、ジュリオ・アルディアン。
彼は手元のグラスを傾け、琥珀色の液体を静かに回している。
その仕草が、不思議と詩的に見えた。
──いや、詩的に見えるのは、きっと彼そのものなのだろう。
「……“恋は、見る人の心に結晶を作る”」
ジュリオが、暖炉の音に溶けるような声で言った。
「これはスタンダールという作家の言葉だ。君も、聞いたことがあるのでは?」
シゼットは一瞬、息を呑んだ。
この異世界で“スタンダール”という名前を耳にするとは思っていなかった。
それが偶然なのか、必然なのか──判断できない。
「ええ……結晶化、ですよね」
「ほう、よく知っている」
「恋する者が、相手を理想化すること……」
「そして、その理想は、必ず崩れる」
暖炉の火が、ぱちんと弾けた。
沈黙の中、その音だけが二人の距離を埋めていく。
◇◆
「あなたは、結晶化を信じますか?」
思わず、シゼットは尋ねた。
ジュリオはグラスを置き、まっすぐに彼女を見た。
紅い瞳が炎を映し、揺らめいている。
「信じる、というより……私は、結晶を壊すのが怖いのだ」
「壊れたら、どうなると?」
「本当の自分が見えてしまう。そして、相手も去る」
その言葉に、シゼットはなぜか胸が締めつけられた。
(この人は完璧に見えるのに、自分を信じきれていない)
それは、雫だった頃の自分と、どこか似ていた。
◇◆
ふいに、ジュリオがソファから立ち上がり、暖炉の前まで歩く。そして、火かき棒で薪を寄せると、炎が勢いを増した。
「寒くないか?」
「……ええ、大丈夫です」
「ならいい。だが、君の指先は少し冷えているな」
そう言って、ジュリオは彼女の手をそっと取った。
指先同士が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
その熱は、暖炉の火よりもずっと直接的で、逃げ場のないものだった。
「……失礼しました」
彼は一歩引き、礼儀を守ったまま距離をとる。
しかし、視線は逸らさない。
むしろ、その目にはほんのわずかな熱が宿っていた。
◇◆
翌朝、侍女たちの間で、ある噂が広がっていた。
「昨夜、ジュリオ様と教育係が暖炉の前で……」
「指先が触れ合っただけで恋が始まるなんて、まるで小説ね」
「ええ、でも小説の恋はたいてい悲劇で終わるわ」
笑い声とともに交わされるその会話が、廊下の影からシゼットの耳に届く。
彼女は歩を止め、何も聞かなかったふりをして通り過ぎた。
(恋……なのかな)
まだ確信はない。
けれど、あの紅い瞳を見つめたときの胸の高鳴りは、嘘ではなかった。
◇◆
その日の夕暮れ。
シゼットが廊下で書類を抱えていたとき、背後から低い声がした。
「シゼット」
振り向くと、ジュリオが立っていた。彼は一歩近づき、ほんの短い間、彼女を見つめる。
「君は、美しい」
それは、初めて彼がはっきりと口にした言葉だった。冗談でも、社交辞令でもない。
魔族の特徴だと聞かされた紅い瞳が、まっすぐに彼女を射抜いている。
シゼットは意を決して尋ねた。
「……あなたは、今まで恋をしたことが?」
ジュリオは短く沈黙した後、炎を見つめて答えた。
「かつて一人の夫人と関わったことがある。だがそれは──恋ではなかった。ただの空虚な慰め合いだ」
「……」
「君は違う。君を前にすると、世界が赤く染まる。あれとは比べようもない」
その言葉に安堵しながら、シゼットの胸には小さな炎が残った。
それはきっと、暖炉の火とは違う──恋の炎だった。