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第5話:リゼの微笑み

夜会の空気は、香水と虚飾の甘い毒に満ちていた。


青の屋敷の大広間には、宝石のように光る衣装をまとった貴族たちが集まり、ワルツの調べとともに杯を傾けている。ガラスのシャンデリアが天井からゆっくりと揺れ、その光が人々の仮面のような笑顔を照らし出していた。


シゼットは、隅の壁際に立っていた。

新しく仕立てられたクリーム色のドレスが、細い肩を包んでいる。


だが、その繊細な布の内側で、彼女の心は張りつめた弦のように軋んでいた。


(わたしは、ここにいていいの……?)


教育係としての立場で夜会に招かれることは、めったにない。だが今回は、「若き当主・ジュリオの推薦で」と、丁重に案内された。


ジュリオはまだ姿を現していない。


彼の気まぐれは、屋敷の誰もが知っている。

それでも、心の奥にはかすかな期待があった。


彼が詩の続きを話してくれるかもしれない。

この空虚な社交の場で、ほんの少しでも“言葉”を交わせるなら。


──だが、現れたのは別の“赤”だった。


「まあ。噂の教育係のご令嬢さんね?」


その声に振り向いた瞬間、空気が一変した。

光沢のある赤紫のドレス。白磁のように滑らかな肌。


高く結い上げた髪には翡翠のかんざしが刺さり、目元には笑みとも挑発ともつかぬ陰影があった。


リゼ・ヴァレンティア。


侯爵家に連なる名門の既婚貴族夫人であり、宮廷でも絶大な影響力を誇る“社交界の華”。彼女はシゼットを一瞥し、唇の片端だけで微笑んだ。


「立ち姿だけで、男たちの視線を独占するなんて、罪深いわね」

言葉は柔らかい。だがその裏に隠された意図は明確だった。


シゼットは反射的に礼を取った。

「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。わたくし、シゼット・クロワと申します」


「ええ、聞いているわ。とても“興味深い”ご令嬢が来たって」

リゼの声は、どこまでも滑らかで、冷たいシルクのようだった。


まるで彼女の言葉そのものが、この場における権威であり、審判なのだとでも言うかのように。

「詩がお好きなんですって? 奇遇ね。わたしも昔は、夢中になっていたのよ」


「昔は……、ということは?」


「詩はね、恋に似ているの。ときめきが過ぎたら、紙切れに戻るのよ。でも、その紙切れが一度でも火をつけたら、人生を燃やすほどの炎になる。──あなたは、燃える覚悟がおありで?」


その瞬間、シゼットは悟った。


この女は、シゼットが“ただ者ではない”と見抜いている。


彼女の視線は、表面だけの美しさではなく、その内側にある知性と誇りを探っていた。


そして、そこに“危険な匂い”を感じ取っている。


「……覚悟なら、少しずつ、覚えていこうと思っています」


シゼットが静かにそう返すと、リゼはほんのわずか、目を細めた。


「可愛らしい返答ね。いいわ、せいぜい夢を見なさい。でも覚えておいて。恋の舞台では、美しさよりも、正しさよりも、“先に笑った者が勝つ”のよ」

そう言い残して、リゼは舞踏の輪へと消えていった。


宮廷のざわめきの中、背後でひそやかな囁きが聞こえた。

「……あの夫人、昔は侯爵様の相手をしていたのよ」


「本当? だが今は別の家の妻でしょう?」


「ええ。だが一度抱かれた女は、いつまでも忘れられないものさ」


シゼットの胸に冷たい棘が刺さった。振り返れば、リゼ・ヴァレンティアの艶めく唇が、意味ありげに微笑んでいる。


その笑みは、ただの噂ではないと告げているように思えた。


◇◆


夜会のあと。


自室に戻ったシゼットは、鏡の前で髪をほどいていた。


化粧が落ちるたびに、ドレスの光沢が褪せるたびに、胸の奥にあった“特別感”が少しずつ剥がれていく。


──先に笑った者が、勝つ。


リゼの言葉が、耳の奥で何度も反響していた。


(わたしは、笑えていたのかな……?)


笑顔は仮面。言葉は剣。

この世界の女たちは、愛を武器にして生きている。


彼女たちにとっての恋は、詩ではなく、戦争だ。


そして、そんな世界において、恋を“詩”だと信じている自分は、あまりに無防備で、あまりに、危うい。


◇◆


その夜、シゼットの部屋に一通の手紙が届いた。


宛名はなかった。ただ、上質な羊皮紙に香水の匂いが染みついている。

封を切ると、中にはたった一行の言葉だけが記されていた。


「恋は結晶化であり、溶かすのも私よ。」

               ──リゼ・ヴァレンティア


灯りを落とすと、夜の闇がゆっくりと忍び寄ってきた。


手紙を握りしめたまま、シゼットは天井を見上げる。


“結晶化”──


「恋愛論」における最初の段階。

恋する者が、相手の中に「想像上の完璧」を見出すこと。


(だったら、わたしはもう、始まってしまっていたのかもしれない)


思い出す。あの紅い瞳。無表情の奥に潜む、孤独な熱。


ジュリオ・アルディアン。


彼の不完全さに触れた瞬間、自分の心が動いてしまったことを、否定できなかった。

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