第4話:欲望と自尊心
宮廷に仕える女たちの目は、剣よりも冷たかった。
シゼットが青の屋敷に身を置くようになって数日。
彼女は朝な夕なに、さまざまな部屋を渡り歩いた。授業の準備、教本の整理、召使たちの取りまとめ。貴族の家に仕えるとは、孤独を友とすることだと痛感していた。
とくに、宮廷に出仕するメイドや女官たちの視線が、耐えがたかった。
「また、あの“転がり込んできた教育係”?」
「しばらくすれば、すぐに別の女が来るのよ」
「でも……あの顔は、ずるいわ」
すれ違いざまに聞こえるささやき。
口元にだけ笑みを浮かべ、目だけが氷のような女たち。
この世界で彼女が得た美しさは、同時に孤立をも意味していた。
◇◆
その日、廊下の脇にある控室で、偶然一枚の大きな鏡と向き合った。冷たい銀縁のフレーム。その中に映る少女を、シゼットはしばらく凝視した。
栗色の長い髪はゆるく結い上げられ、白い肌と艶やかな唇がまるで別人のようだった。
目元には軽く化粧が施され、彼女の瞳──雫だった頃は地味だった茶色の瞳──が、どこか吸い込まれるような深緑にも見えた。
「……これ、わたし?」
唇から漏れた言葉は、自分自身への疑いだった。
雫の頃、鏡に向かって“綺麗だ”と思ったことなど一度もなかった。コンタクトすら億劫で、眼鏡のまま就活写真を撮った。祖父の古本屋で汚れた指を拭いながら、本の背表紙ばかり見ていた。
でも──今、鏡の中の自分は誰かの小説の登場人物のように、美しい。
だがその美しさに、内面が追いついていないことも、シゼットには分かっていた。彼女の中にはいまだ、黒沢雫の記憶と感性が眠っている。
無表情に鏡を見るその仕草の奥に、自己否定の癖が残っていた。
そのとき、背後で声がした。
「……もしかして、鏡と喧嘩でも?」
振り返ると、召使の一人──年若いメイドが、バケツを手に立っていた。その瞳には好意も憎悪もなく、ただ、評価が浮かんでいた。
「さすがは“侯爵のお気に入り”。次の夜会でも映えそうね」
「お気に入り、だなんて……そんなこと、あるはずが──」
「ないと思いたいのは、あなただけじゃないかしら?」
その言葉のあと、少女は何も言わず去っていった。
廊下に残されたのは、シゼットと鏡、そして美しさという孤独だけだった。
◇◆
午後、書庫に身を沈めた。
天井近くまである書棚に囲まれたこの部屋は、青の屋敷で唯一、彼女が息を整えられる場所だった。
壁に埋め込まれた魔導灯が静かに灯るなか、シゼットは『古詩学拾遺』のページをめくっていた。
詩のひとつが目を引く。
《欲望は、鏡の中に自尊心を映し出す。
自尊心は、やがて自分を裏切る。
だからこそ、恋は儚く、価値がある。》
ページを指先でなぞりながら、彼女はふと思う。
──美しさに価値があるとしたら、それは誰かの“視線”があるからだ。
そして視線が価値を決めるならば、わたしは“交換可能な存在”なのかもしれない。
そう考えると、胸の奥がひどく冷えた。
この世界の“教育係”とは、必要なら取り替えられる部品。侯爵の家の子息に、言葉と礼儀を教える存在。
その外見が“華やか”であればこそ、飽きられるのも早い。
「……それでも」
ページを閉じ、彼女は小さく息を吐いた。
「それでもわたしは、言葉を教えるわ。詩が、恋が、言葉から始まるなら──せめて、恋を教える者でありたい」
それは、強がりにも似た祈りだった。
◇◆
その日の夜、彼女は夢を見た。
暗い部屋。誰もいない書庫。
そこに、あの紅い瞳が現れる。
ジュリオ・アルディアン。
彼は何も言わず、書棚の奥で詩を読む。
その声が、静かに胸を打つ。
ページが風にめくられ、詩が光を放つ。
「……君は、美しさで選ばれたのではない。声で、選ばれたのだ」
夢の中で、彼がそう言った気がした。
それが現実か妄想かは、分からない。
けれど目覚めたとき、シゼットはひとつの決意をしていた。
──わたしは、ただの“美しい教育係”では終わらない。
──“愛されるため”ではなく、“愛するため”にここへ来た。