第3話:青の屋敷と紅い瞳
青の屋敷は、まるで時間そのものが息を潜めているような建築だった。
大理石の門柱には青銅の鷲が翼を広げ、広場に面した壁面には、澄んだ青のタイルが幾何学的に並んでいた。
それは一見して壮麗でありながら、どこか冷ややかな威圧感を漂わせている。
魔導機関を埋め込まれた鉄扉が、ゆっくりと軋みながら開いた。
(こんな場所に、わたしが入っていいの?)
シゼット・クロワは、柔らかなローブの裾をそっとつまんで一歩、敷地に足を踏み入れた。
石畳の冷たさが靴越しに伝わる。
少しでも躓けば、誰かに笑われる気がした。
「こちらへどうぞ、教育係様」
案内役の侍従は、無表情な少年だった。
目元だけが妙に年老いていて、笑うことを知らない彫像のような顔つき。
彼に導かれて歩く廊下には、重厚な絵画や魔導照明が並び、音ひとつ漏れぬ静寂が支配していた。
不思議だった。
屋敷の中なのに、心が凍るように冷たい。
──アルディアン侯爵家。シゼットを“役割”として迎え入れた場所。
でも、ここに“シゼット”自身の居場所はあるのだろうか。
◇◆
迎えの間に通され、簡単な挨拶を終えたあと、シゼットは私室としてあてがわれた書斎に通された。
意外なほど簡素な部屋だった。
質素な机、整然と並ぶ本棚、書きかけの羊皮紙。
窓から見えるのは、庭園というには無骨すぎる石畳の中庭だった。
けれど、そこに置かれていた書物の背表紙を一目見て、シゼットの心が静かに震えた。
──『アマンダの追想詩』
──『神聖語による韻文形式論』
──『イーリス年代記:詩篇の章』
詩の本ばかりだった。
彼女の手が自然と伸びる。
指先が革の背表紙に触れたとき、足音が廊下に響いた。
軽く、だが滑らかな足音。
貴族のそれにしては無駄がなく、兵士にしては柔らかい。
扉が、ノックもなく開いた。
「──君が、新しい教育係か」
振り返ったシゼットの視界に飛び込んできたのは、深紅の瞳だった。
彼はそこに、立っていた。
ジュリオ・アルディアン。
想像以上に若かった。
整いすぎた顔立ち。淡い黒銀の髪。無駄のない体躯。
その完璧さが、かえって現実味を薄れさせていた。
「はい……シゼット・クロワと申します。どうぞ、よろしく……」
声が震えていた。言葉は丁寧に選んだつもりだったが、喉が乾いていた。
彼の視線が、自分を一度、頭からつま先まで撫でたのを感じる。
だが、ジュリオの顔に感情の色は浮かばなかった。
無表情で、ただ、興味の欠片だけが光のように揺れていた。
「シゼット、か。変わった響きだ」
「そ、そうでしょうか。こちらの言語での意味は、“雫”に近い、と聞きました」
「雫。……空から落ちてくる水の名前か。綺麗だ」
それは、言葉としては褒めていた。
けれどそこに感情の温度が感じられなかった。
彼はただ、詩の一行を読み上げるように、名前を口にした。
そしてふいに、彼の視線が書棚の一冊へ向いた。
「それは、父の蔵書だ。好きに読んでかまわない。詩がわからぬ者には、この家での役目は果たせないから」
「……詩がお好きなのですか?」
問いかけると、ジュリオの表情がわずかに変わった。
「詩は、心を持たぬ者にも、愛について語る方法だ。だが逆に、心を持つ者には、真実を濁すものでもある」
(この人は、何を言っているの?)
言葉が、美しいのに、どこか空虚だった。
彼の瞳が赤いのは血のせいか、それとも灯のせいか。
シゼットには、その奥がまるで見えなかった。
「君は、詩が読めるのか?」
「……はい。少しだけ。昔から、好きでした」
「それなら、ひとつ朗読してみて」
「今、ですか?」
「今がいい。君の声で聴きたい」
彼の声音には、命令とも、願望ともつかぬ冷たさがあった。
だがその裏に、ほんの一滴だけ──本当に微かな、孤独の匂いがした。
◇◆
シゼットは一冊の詩集を開き、声を落ち着かせながら一編を読んだ。
それは“恋を知らぬ少年”が、幻の中で少女の声に目覚める詩だった。
読み終えたとき、ジュリオは静かに言った。
「……いい声だ。氷の中に、火を灯すような響きだ」
そしてそれ以上、何も言わず、扉の向こうへと去っていった。
彼の足音が遠ざかるたびに、シゼットの胸に残ったのは──この人には、なにかが欠けている。
その“なにか”が、まだ名前を持っていないことに、彼女は気づいていた。