第20話:恋はスタンダールのあとで
朝の光は、刃物のように澄みきっていた。
王都の広場は、既に人で埋め尽くされている。階段状の家々や屋根の上までもぎっしりと人影が並び、その視線が一斉に処刑台へ向かっていた。
石畳を歩くたび、鎖の触れ合う鈍い音が響く。両手は背に縛られ、足取りは衛兵によって一定の速さに保たれていた。
青空は高く、まるでこの場に集まったざわめきや息遣いを嘲笑うかのように静謐だった。
階段の下から、シゼットはまずリゼを見つけた。
黒いヴェールが春の風に揺れ、その下から覗く瞳は複雑な色を宿していた。
勝者の微笑みではない。唇の端はわずかに震え、視線は何かを押し殺すように硬い。その眼差しは、「あの夜」を思い出させる。銃を構え、撃てなかった自分。そして撃たせなかった彼女。
ヴェールの奥で、リゼの唇がわずかに震えた。それが勝者の微笑なのか、敗北の吐息なのか──誰にも分からなかった。
次に視線が絡んだのは、群衆の奥に立つセルジュだった。黒い法衣は人波の中で影のように溶け、その瞳だけが涙を湛えて輝いていた。
彼は口を動かし、祈りの言葉を紡いでいる。シゼットは静かに首を振る。
「黒の道」は選ばなかった。だが、そこに宿る温もりを拒んだわけではない。セルジュの瞳が語っていた──理性の奥にも、炎は存在するのだと。
そして、最も近く、最も遠い男。
ジュリオ・アルディアン。
貴族席の最前列に立ち、紅い瞳がこちらを真っ直ぐに射抜く。肩にかかる外套は動かず、その足も一歩も前に出ない。鎖は彼の足元にはない。だが、義務という名の見えない鎖が、彼を縛り付けている。
それでも、その視線の奥には、確かにあの夜の赤が燃えていた。──書庫で交わした口づけ。蝋燭の光、肩越しに感じた息の乱れ。
すべてが胸の奥で蘇り、痛みではなく誇りとして脈打った。
階段を上がり、処刑台の中央に立つ。風が裾をはためかせ、髪を乱す。
老神父が祈りを告げるために近づく。だが、シゼットは微笑み、首を横に振った。
シゼットは空を仰ぎ、深く息を吸った。そして、広場全体に響く声で叫ぶ。
「──この命は、あの人のために捧げる!」
群衆の波が一瞬揺れた。嘲笑も驚きも、すべてがその言葉に飲み込まれる。
さらに続ける。
「だから、お願い!──誰か、次の世界でわたしを“つかまえて”」
沈黙。
風が吹き抜け、どこからともなく赤い花びらが舞い上がった。それは処刑台の下にいた子供が投げたものか、あるいは誰かの手向けだったのか。
花びらは朝日に透け、血にも似た色を放ちながら空を舞う。シゼットの視界は、その赤で満たされていく。
──これは、終わりと始まりの色。
刃が陽光を反射し、閃く。
最後に、三人を見た。
リゼのヴェールが揺れ、セルジュの黒が翻り、ジュリオの紅が滲んで揺れる。
それらの色が一枚の絵画のように重なり、やがて白紙の未来へと溶けた。
音が消えた。
広場には、静寂だけが残る。
処刑台を降り、少し離れた場所で老神父は腕に抱えた小さな包みを受け取る──それは、静かに眠るシゼットの娘だった。まだ何も知らぬ赤子を見下ろし、優しく語りかけた。
「これは、お母様の選んだ恋だ」
娘は目を開け、風に揺れる花びらを追うように瞬きをした。
一陣の風が吹く。
赤い花びらは空高く舞い、まるで見えない誰かの手に導かれるように、遠くへ、別の世界へ運ばれていく。
その先に、新たな結晶の気配があった。




