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第2話:雫という名の教育係

村には、静かな朝が訪れていた。

シゼット・クロワは、井戸のそばに腰かけ、乾いた木桶に水を汲んでいた。


白い陽が、石畳の路地を照らしている。遠くのほうで子どもたちが笑い声を上げていた。

小さな家々。煙突から立ちのぼる朝の煙。


どこにでもありそうな、けれど“どこでもない”風景。


そしてそこに、黒沢雫の知っている日本は、どこにもなかった。


──あれから、何日が経ったのだろう。


目が覚めたとき、シゼットはこの村の端にある修道院のような建物にいた。

妖精族の女たちに囲まれ、「ようこそ」と微笑まれた。


最初はすべてが夢のようで、現実感がなかった。


だが、呼ばれる名前は「雫」ではなく「シゼット」。

鏡の中には、眼鏡も地味な服もない、美しい少女が立っていた。


彼女はその姿に怯え、部屋の隅で震えながら日々を過ごした。


けれど、言葉だけは、なぜか理解できた。

妖精族の話す流麗な言語も、祈りの歌も、読めばすぐに分かった。


スタンダールの本を読みふけったあの頃と同じように、意味が“音”からすぐに立ち上がる。


修道女たちは言った。

「あなたは、神の書を読むことができる。これは、祝福です」


違う、と心の中で雫は呟いた。


(祝福なんかじゃない。これは、異質さの証拠だ)


けれど、その能力があったからこそ、彼女は“この世界”で役割を与えられた。

──貴族の家に仕える「教育係」の仕事。


ある日、年配の人間族の役人が村にやって来て、こう告げた。

「クロワ嬢、あなたは言語に長け、品位を備えていると聞きました。


アルディアン侯爵家が、教育係を探しています。ぜひご同行を」


“教育係”という響きに、雫は胸を突かれた。

学生時代、教育実習の面接にすら通らなかった。


なのに今、この異世界では自分が“選ばれる”存在になっている。

何もかもが現実離れしているのに、それでも、確かに息をしている。


心臓が打っている。汗をかいている。


──これは、夢じゃない。


そして、胸の奥で、微かに期待の種が芽吹いていた。


もしかしたら、この世界なら……

誰かと、出会えるかもしれない。


◇◆


その朝、出発の準備を終えたシゼットは、村を見下ろす小高い丘の上に立った。


ライ麦畑の先、蒸気を吐く機関馬車が待っている。


村の子どもたちが見送りに来てくれていた。


白いスカーフを頭に巻いた妖精族の少女が、そっとシゼットの手を取った。

「きっと、シゼット様なら、大丈夫です」


シゼットは、かすかに微笑んだ。

「……ありがとう。でも、わたしは“様”じゃないわ」


「でも、そう呼べと皆が言います。あなたは特別ですから」

特別。

その言葉に、胸の奥がざわめいた。


“黒沢雫”は、誰からも特別だと思われたことがなかった。


目立たず、しゃべらず、ただ本と向き合って生きてきた。


──それが、いま“役割”を与えられている。


教育係。貴族の屋敷。名前も、身体も、美しささえも変わって。

わたしは、別の人生を生きるんだ。


◇◆


馬車は、ゆっくりと村を離れていく。

荷台の窓から見えるのは、金色の麦と、青い空。


道の向こうに、遠く青く霞む森がある。

鉄の車輪が、土の道をきしませて進んでいく。


向かいの席には、あの役人がいた。

彼は古めかしい帳簿をめくりながら、ぽつりと言った。

「青の屋敷は、厳格な家柄です。特に若侯爵は、並の人間ではありません」


「……ジュリオ・アルディアン、ですね」

名前を口にすると、胸の奥がちくりと痛んだ。


あの夜──雫だった頃にタップした、マッチングアプリのプロフィール。

そこにあった“ジュリオ・アルディアン”という名前。


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偶然なのか、それとも──


「どんな方なのですか?」

シゼットが問うと、役人は眉をひそめた。


「聡明にして寡黙。詩を愛し、学問に優れた方です。……ですが、心を読ませない人だとも聞きます」


心を読ませない。

まるで、自分みたいだ。


そう思ったとき、車輪が石に乗り上げて、馬車がぐらりと揺れた。


その衝撃に、小さな宝石のような感情が、ふいに胸からこぼれ落ちそうになった。

──怖い。でも、会いたい。


この世界の誰かと、恋をするのが怖い。


けれど、恋に出会わなければ、ここに来た意味がない気がする。


スタンダールは言った。

「恋とは、魂の中で生まれる詩である」


詩に触れるように、人に触れてみたい。


◇◆


馬車は、青い霧のかかる丘陵へ差しかかっていた。

この先に、どんな屋敷が待っているのか。


どんな言葉が交わされ、どんな恋が芽生えるのか。

まだ何も知らない。


でも、“知りたい”という欲望だけが、かすかに胸に灯っていた。


──わたしは雫。けれど、いまはもう、シゼット・クロワ。


恋を知るために生まれ変わった女の名前。

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