第19話:黒のあと、赤が咲く
牢の中は、石の匂いがした。湿った藁の上に、シゼットは横たわっている。腕の中には、小さな命。生まれたばかりのその子は、かすかな声で泣き、泣くたびに、胸の奥が締め付けられる。
助産婦が去る前に一度だけ抱かせてくれた。ほんの数分のことだったが、世界のすべてを両腕に抱えた気がした。
「あなたは、生きるのよ」
その囁きは、子を安心させるためでなく、自分自身に告げた呪文だった。
そう口にした瞬間、わたしは悟った──自分は生き延びるつもりがないのだと。
娘はすぐに老神父のもとへ預けられた。わたしの手元には、小さな毛布の切れ端だけが残った。
◇◆
明け方、夢の中で刃が落ちる音を聞くようになった。目を覚ましても、耳の奥でその残響が消えない。
時折、神父がやって来る。
「心を整えなさい、娘よ」
シゼットは笑う。整えるも何も、もう心は一つの方向しか向いていない。愛を証明するための死──それ以外はすべて削ぎ落とされた。
ある日、面会にセルジュが来た。彼の黒い法衣は牢の闇と溶け合い、その瞳だけが異様に明るい。
「君の代わりになれないのが、苦しい」
彼はそう言ったが、シゼットは何も応えなかった。娘を連れてならセルジュとどこかへ行ってしまったかもしれない。
彼は長く息を吐き、「神のご加護がありますように……」とだけ告げて去った。
夜、夢にリゼが現れた。
黒いヴェールを揺らし、あの挑発的な笑みを浮かべている。
彼女は何も言わなかった。ただ、議会でのあの視線──「撃てなかった女」を見下ろす視線──が、夢の中でも胸を焼いた。
窓の外の光は少しずつ長くなり、春の気配が風に混じる。石の隙間から差し込む光は、まるでわたしの終わりを照らすためだけにあるようだった。
◇◆
処刑の前夜、老神父が訪れた。
神父はしばし沈黙し、やがて低い声で問う。
「あの手紙は必ず手渡します。そして……何か想っている事は、他にありませんか?」
外から、鐘の音が響いた。
低く、長く、夜を裂くような音。
「……神父様。わたし、前世は現代の、うだつの上がらないコミュ症の……学生だったんです。古本屋の手伝いばかりで、バイト代は生活費に消え、恋もせず……教室の隅で本を読んでいました。
スタンダールは言ったでしょう──『恋とは、相手の中に見えない宝石を見つけ、それを永遠のものと信じる錯覚だ』と。わたしにはその宝石が見えなかった。
……でも転生して、ようやく見つけたの。愛されて、愛して、世界が結晶化するあの瞬間を。結晶は光を浴びて輝くけれど、わたしが触れた瞬間、それは砕け散った。
……この世界も、あの世界も同じです。人は真実よりも噂を信じ、愛よりも体裁を選び、弱い者から先に殺す。人の妬みは鉄より重く、嫉妬は火よりも速く広がる。
あなた方は『秩序』や『神の御心』なんて飾りをつけて、そういう醜さを正当化してきた。でもね、秩序が守るのは強者の椅子で、神の御心が届くのは富んだ者の家だけなんでしょう?
わたしはこの国を赦さない。この世界を赦さない。そして、わたしが生まれたあの世界も。誰かが正しいことを言っても、群衆は石を投げ、権力者は沈黙し、友は背を向ける。それを『現実』と呼ぶなら、現実なんて呪われればいい。
この娘だけは、同じ道を歩ませないで。彼女の結晶は、誰にも砕かせないで。
もしまた別の世界で目を覚ます日が来たら──その時は、今度こそ、全部ぶち壊してやる。愛も秩序も、あなた方の神さえも。すべて全部。これは祈りじゃない。呪いです。呪いこそが、わたしの最後の結晶です」
それを聞いた神父は、ただ何も言わず、薄っすらと涙を目に浮かべていた。神父はその目を閉じて祈り続け、まるで逃げるように去っていった。
◇◆
その夜は不思議と眠れた。
夢は見なかった。
目を閉じれば、暖炉の前の書庫でジュリオと過ごした夜が、音もなく胸に広がる。蝋燭の光、紅い瞳、重なる息。その全てが、もはや痛みではなく、静かな輝きに変わっていた。
そして朝が来た。
鉄格子の向こうに、衛兵が立っている。
「時だ」
その二文字は、刃の冷たさよりも鋭かった。
シゼットは立ち上がり、毛布の切れ端を胸に抱き、ゆっくりと牢を出た。
青空が、もうそこにあった。




