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第18話:最後の手紙

独房の空気は冷たく澱んでいた。石壁の隙間から吹き込む風が、蝋燭の炎を細く震わせる。


机代わりの木箱の上に、粗末な紙と小さなインク壺が置かれている。衛兵が「遺書を書け」と無感情に置いていったものだ。


ペンを握る指先は冷えていた。けれど、その震えが寒さのせいだけではないことを、シゼットは知っている。


──ジュリオ。


たった一行、その名を書きかけて、ペン先が止まった。


呼びかけるだけで胸が焼ける。彼の紅い瞳が浮かび、その奥に隠された孤独を思い出す。


あの夜、書庫で唇を重ねたとき、自分の中の何かが音を立てて変わった。理性よりも深い場所で、彼とひとつに溶けた。


その感覚は、死を前にしてもまだ鮮やかに残っている。


ペンを動かす。

「あなたを、愛してしまいました」


それだけで十分だった。言葉は少ない方が、かえって真実の熱を閉じ込められる。長々と綴れば、想いが空気に散ってしまいそうだった。


紙の端に滲むインクを指先で押さえ、深く息を吐く。胸の奥で、小さく命が動いた。


その動きは、泣きたくなるほど確かで、そして優しかった。


二枚目の紙を取り上げる。これは、まだ顔も知らぬ娘への手紙。


◇◆


シゼットがまだ捕らわれる前、港町の病院の紹介で、町外れの礼拝堂を訪ねた事があった。


そこにいたのは、妖精族の血を引く若い神官だった。人間族とは異なる翡翠色の瞳で、彼は静かにシゼットの腹に手をかざし、何か古い言葉を囁いた。


「──女の子だよ。強く、そしてよく笑う子になる」


淡い光が腹の奥に差し込み、小さな鼓動が彼女の手のひらに響いた。


その夜、眠りについたシゼットは夢を見た。


白い花畑の中、背中までの黒髪を揺らし、紅い瞳を持つ少女が走ってくる。


まだ幼いのに、微笑みはジュリオそっくりで、両手いっぱいに花を抱えていた。


「お母さま」と呼ばれた瞬間、胸が熱くなり、涙が零れた。


だから彼女は疑わなかった。生まれてくるのは娘。


この世界がどれほど冷たくても、その子には春の光を浴びせる──それが、シゼットの揺るがぬ誓いになったのだ。


◇◆


朱色の蝋燭の灯が、文字を柔らかく包む。

「あなたは、私の最も美しい一章。この世界がどれほど冷たくても、あなたの上には春の光が降り注ぎますように。どうか、あなたが愛を選ぶとき、それが恐れや打算ではなく、魂を差し出すほどの恋でありますように」


書きながら、涙が紙を濡らした。それでもペンは止めなかった。


娘が読むころ、母はもういない。だが、この手紙があれば、愛した証は残る。


母の生は短くても、娘の物語は長く続いていくはずだ。


手紙を書き終え、蝋を垂らし、紋章のない封をする。

その封筒を、牢を訪れる老神父に託した。


やがて、石畳の向こうから足音が近づいてきた。鉄格子の向こうに、白い髭の老神父が立つ。


シゼットは静かに二通の手紙を差し出した。

「神父様、ひとつはジュリオ様へ。もうひとつは、私の娘に」


「必ず届けよう」


神父は深く頭を下げた。その仕草が、どんな慰めの言葉よりも重かった。そして、一拍あけて、尋ねた。

「どうして、そんな顔をするのです、シゼット」


「神父様、あなたは聖書のことしか知らない。でも、わたしはこの世界の裏側を知った。人は妬み、真実は歪み、結晶は必ず砕ける。スタンダールは書いている──“恋の結晶化は、愛の最初の幸福であり、最後の罠だ”」


神父は眉をひそめた。

「……あなたはそれでも、愛を信じるのですか?」


「信じますよ。だからこそ、呪います。わたしを裁くこの街を、わたしの恋を見世物にした人々を。愛を知らないまま息絶える全ての魂を」


蝋燭の炎が短く揺れ、ふっと消えた。


闇の中で、シゼットはそっと両手を腹に重ねた。

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