第17話:愛に罰を
夜は静かだった。
冷たい石の床が、今夜に限ってはやけに柔らかく感じられる。外から聞こえるのは、遠くの波音と、鉄格子の隙間を抜ける風の低い唸り。
シゼットは横たわり、薄い毛布を胸の上まで引き寄せた。灯りは既に消え、闇の中で自分の呼吸と腹の中の小さな鼓動だけが確かな現実として残っている。
いつ眠りに落ちたのかも分からないまま、夢の中にスタンダールが現れた。
背の高い男が、半ば影に沈みながら囁く。
「恋愛は、魂の詩だ。だが詩は、必ず終わる」
その声は遠く、しかし胸の奥で直接響いた。
シゼットは返す言葉を探すが、夢の中の口はうまく動かない。彼は微笑み、まるで祝福するかのように肩へ手を置く。
「詩が終わっても、韻は残る。君はもう、それを書き終えた」
目が覚めたとき、瞼には涙が滲んでいた。
ああ、わたしは──終わるのだ。
それでも、愛したことに悔いはない。
思い返すのは、ジュリオの紅い瞳。あの光に触れた瞬間、自分の世界が一変した。彼の笑みも怒りも、沈黙も、すべてがわたしを形作った。
もしこの恋が罪であるなら、甘んじて罰を受けよう。それが、わたしの生きた証になるのだから。
窓の外が、わずかに明るくなり始めている。
鉄格子の影が床に長く伸び、石壁は冷たい灰色から薄紅へと変わりつつあった。
その光景に、シゼットはふと笑みをこぼす。
赤と黒──わたしの人生は、まさにその境界を歩いてきた。
鉄格子の向こう、最後に見たセルジュの横顔が脳裏に浮かぶ。冷たい灰色の瞳の奥に、焔にも似た情熱を隠し持つ男──あれは、わたしの物語の「黒」だったのだろう。
理性と秩序で覆い尽くされ、感情を隠し、ただ正しい道を選ぼうとする黒。
その黒は、ジュリオの赤とは正反対でありながら、確かにわたしを包み得たかもしれない色だった。
──紅い瞳が、夜の書庫で蝋燭を背に輝き、「君は美しい」と囁いたあの瞬間とは、まるで異なる温度で。
もしあの手を取っていれば、別の詩が綴られていたのだろうか。
だが、黒は夜を守る色であり、わたしは夜明けを選んだ。
その瞬間、彼の目に宿った痛みを、いまようやく理解する。
愛ではなく、理性ゆえに差し出された救い──それもまた、美しい色だった。
黒は孤独と理性、赤は情熱と破滅。
今、この朝焼けの中で二つの色は混ざり、わたしを包んでいる。足元には、処刑台へと続く影が落ちていた。だが、それは恐怖ではなく、長い旅の終着点への道標のように思えた。
影の先には、澄み渡る朝の空。その青の奥に、きっとジュリオの面影がある。
腹の奥で、小さな命が動いた。
「……あなたに、会わせてあげたかった」
声は震えたが、涙はもう流れなかった。
この子は、わたしの一番美しい一章。わたしの詩が終わっても、必ず未来へ続く行間となる。
外から、誰かの足音が近づく。衛兵の靴音は規則的で、まるで時計の針のようだ。もうすぐ、すべてが動き出す。
シゼットは最後にもう一度、目を閉じた。
その闇の中、書庫で交わした初めての視線、暖炉の前での囁き、唇の温もりが次々と蘇る。
──愛してしまいました。
心の中でそう告げると、不思議と胸は軽くなった。
もう、恐れるものは何もない。
詩は終わる。けれど、その韻は永遠に続くのだから。




