第16話:セルジュの問い
夜の牢獄は、冷えきった石の心臓のように沈黙していた。湿った空気が鼻腔を刺し、遠くからは水滴の落ちる音が、途切れ途切れの時計のように響く。
シゼットは藁の上に身を横たえていたが、眠ってはいなかった。眠ろうとすると、昼間の裁判の喧噪が脳裏に蘇り、群衆の笑い声が耳の奥で再生される。
そのとき、錠前が軋む音がした。
足音が一歩、また一歩と近づいてくる。鉄格子の向こう、灯されたランプの光に浮かび上がったのは、黒衣の神官──セルジュ・カノンだった。
◇◆
「君を助けられる」
開口一番、その言葉は低く、熱を孕んでいた。
シゼットは上体を起こし、鉄格子越しに彼を見た。灰色の瞳が、闇の中でも鋭く光っている。
「どういう意味?」
「逃げられる。手筈は整えた。今夜、見張りは変わる。その隙に一緒に国を出よう」
彼は鉄格子に近づき、両手をかけた。その指は、金属の冷たさを押し返すように強く握られている。
牢の闇に溶けるように、セルジュの声は低く深く響いた。
「君となら…違う未来を作れる」
その言葉に、シゼットの胸の奥で何かが揺れた。
もし、この灰色の瞳の人と海を越え、誰も知らぬ地で暮らすなら──石畳ではなく柔らかな土の道、日差しの下で赤子を抱き笑う自分の姿が、ふいに脳裏に浮かぶ。紅い瞳ではなく、静かな光を宿す灰の瞳が、隣にいる未来。
鉄格子越しの指先が、あと少しで触れられる距離まで伸びる。呼吸と呼吸が重なり、ほんの一瞬、この世界から抜け出せるような錯覚に包まれた。
そのとき──腹の奥で、小さく命が動いた。
生まれ来る者が、母を呼び戻すように。
シゼットはそっと息を吸い、視線を下げた。
「……ごめんなさい。それは、わたしの恋じゃない」
声は震えていたが、もう迷いはなかった。
セルジュの瞳に浮かんだ光が、静かに翳っていくのを見つめながら。
声は驚くほど穏やかだった。
セルジュの眉がわずかに動く。
「死ぬつもりなのか? あの男のために?」
「ええ。だって、わたしは──」
シゼットは言葉を飲み込む。愛している、などと言えば、彼を傷つけるだけだと分かっていた。
沈黙の中、二人の呼吸だけが聞こえる。鉄格子の冷たさが、互いの距離を残酷に保ち続けていた。
◇◆
「君は……狂っている」
セルジュの声は低く震えていた。それは怒りではなく、焦燥と哀しみの混ざった音色だった。
「この世界は、愛を簡単に殺す。だからこそ、奪われる前に守らなければならない」
彼の手が、鉄格子の隙間から伸びる。細く長い指先が、あとわずかで彼女の頬に触れられる距離まで迫る。
シゼットは動かなかった。触れれば、その温もりが自分を揺らしてしまうと分かっていたから。
「それでも、あの人を選ぶんだな」
「ええ」
短い答えが、牢内の空気を硬く閉ざす。
◇◆
セルジュは、しばし彼女を見つめていた。その瞳には、確かに恋の色が宿っていた。
そして、吐息のような声で言った。
「君は本当に……狂おしいほど美しい」
次の瞬間、彼は手を引き、背を向けた。黒衣がひらめき、足音が遠ざかる。ランプの光が鉄格子から消えると、再び闇が訪れた。
闇の中で、シゼットは静かに目を閉じた。
彼の言葉は胸の奥に熱を残しながらも、その熱は、すでに心を支配している紅い瞳の男に捧げられていた。




