第14話:銃と赦し
夜の雨は、針のように冷たかった。石畳は濡れて黒く光り、地面の水たまりには灯りのない空が映っている。地下牢の錆びた扉が軋み、ひと筋の闇が開く。その隙間から差し出された手が、シゼットの手首を掴んだ。
「急げ、見張りはすぐ戻る」
低く囁く声。だが、その声音にはどこか、愉悦の影が潜んでいた。彼女は裸足のまま廊下を駆けた。天井から落ちる水滴が、鎖の音と混じり合って響く。
出口に近づくほど、雨音が大きくなる。
地上に出た瞬間、冷たい豪雨が全身を打ち、獣のような息が漏れた。背後の手引き役は、石造りの壁の陰に回り込み、包みを押しつける。
「持っていけ。お前の手には、その方が似合う」
濡れた布の中で、金属が重く冷たく光っていた。古い回転式拳銃。銃を握った瞬間、胸に冷たい既視感が走った。
そうだ、スタンダールは書いていた──恋に追い詰められた若者が、絶望の果てに銃を握り、愛した人へ引き金を向けたことを。
(……わたしまで、ジュリアンをなぞるの?)
だが、その影を重ねるなら、狙うべき相手はジュリオではない。
愛を奪い、結晶を砕き、わたしの未来を踏みにじった──あの女。
足は自然と、リゼ・ヴァレンティアの屋敷へと向かっていた。密告の筆跡、議会でのあの挑発的な視線が、炎のように胸を焼き続けている。
けれど、それでもいい。
胸の奥で、炎のような痛みが再び燃え上がる。議会での侮辱。挑発的な微笑。すべてが、あの女に通じている。銃身を懐に隠し、彼女は雨を切り裂くように走り出した。
彼女の扉を叩くまで、この足は止まらない。
◇◆
屋敷は月明かりを拒むように高い塀で囲まれ、門番の姿もない。深夜二時を過ぎたこの時刻、当主以外は眠りに落ちているはずだった。
軋む勝手口を押し開け、濡れた足跡を廊下に残しながら階段を上る。指先に冷たい鉄の感触──隠し持っていた拳銃。重みが心臓の鼓動と同じ速さで震えている。
◇◆
寝室の扉は半開きだった。
ランプの橙光が、天蓋付きのベッドを薄く照らす。
シーツの上に半身を起こした女がいた。深紅のナイトガウンに包まれたその姿は、昼間の社交場よりも妖艶で、しかし目だけは冷たく光っている。
「……やっぱり来たのね」
リゼの声は囁きにも似ていたが、確かな余裕があった。
銃口をまっすぐに向ける。
「どうして──」
声が震える。
「どうして、あんなことを……!」
リゼは微笑む。唇の端だけで。
「理由なんて単純よ。私の世界では、あなたは余分だから」
ゆっくりと立ち上がると、彼女はベッド脇のテーブルに置かれた扇子を手に取った。眠気の欠片もない仕草。
◇◆
「撃てるなら、撃ってみなさい」
その瞳は恐怖ではなく、むしろ誇りで輝いていた。
「あなたが私を撃てば、侯爵は永遠にあなたを許さない。撃たなければ……あなたは私に負けたことになる」
銃を握るシゼットの手が震えた。
雨で冷えた指が、引き金の感触を確かめるたびに強張る。
頭の奥で、暖炉の前で重ねた手の温もりと、議場でのジュリオの沈黙が交互に浮かぶ。
(撃てば、すべてが終わる。撃たなければ……)
リゼは一歩、また一歩と近づく。
「恋なんて、美しい時に終わらせるのが一番よ。あなたはまだ分からないのね」
息が触れるほどの距離で、彼女は囁いた。
「──恋を壊すのも、また恋の一部だってこと」
◇◆
銃口が揺れた。
シゼットの瞳から、熱い雫が一つこぼれ落ちる。
引き金にかけた指は力を失い、銃は床に落ちて鈍い音を立てた。その瞬間、扉が開き、甲冑の音が雪崩れ込む。
「動くな!」
衛兵たちが一斉に取り囲む。
シゼットは振り返らない。ただ、崩れるように膝をついた。
リゼは何も言わず、扇子で口元を隠したまま衛兵に視線を送る。
その目は、勝者のものだった。
◇◆
両腕を掴まれ、引きずられるように廊下へ出る。
背後でリゼの扉が静かに閉じる音がし、屋敷は再び眠りに沈んでいく。
シゼットの胸の奥では、敗北の苦味と、守れなかった何かの痛みが混じり合い、重く沈んでいた。
冷たい雨は、その境界を溶かすように降り続けていた。




