第13話:リゼの密告
昼下がりの宿屋。
港からのざわめきと潮の匂いが、半開きの窓から忍び込んでいた。
扉を叩く音が二度、低く響く。
宿の主人が入ってきて、言葉もなく一通の封書を差し出した。厚手の羊皮紙、黒い封蝋に刻まれた王都議会の印章。
その冷たい質感に触れた瞬間、心臓の奥に氷を押し当てられたような感覚が走る。封を切る。中の文字は、整いすぎた筆致で並んでいた。
侯爵家の血を汚す存在がいる。
その者は卑しい素性を隠し、子を孕み、侯爵の名を辱めている。
名はシゼット・クロワ。
読み進める必要はなかった。あの、笑みを崩さずに刃を振るう女の筆跡だ。リゼ・ヴァレンティア。
指先が震え、紙の端を爪で押し裂きそうになる。
唇の奥で熱い息が渦巻き、視界がにじんだ。
──ああ、これが結晶を砕く瞬間か。
スタンダールの恋愛論で読んだあの言葉が、皮肉にも現実の刃となって胸を抉る。
封書を握りつぶす。爪が手のひらに食い込み、血の匂いがわずかに立つ。
怒りは炎のように燃え上がりながらも、不思議と冷静な芯を残していた。
この女は、微笑みながら人を焼き尽くす火だ。自分はその炎の中に落とされたのだ。
◇◆
翌朝、王都の議会棟。
石畳を打つ馬車の音と衛兵の靴音が、やけに響く。
宿屋の前には既に二人の衛兵が待ち構えていた。
「シゼット・クロワ、同行願う」
形式的な言葉の裏に、既に判決を知っている者の薄い笑みがあった。
腕を取られ、縄が手首に食い込む。
その感触が、まるで目に見えない首輪のように胸を締めつける。
議会棟の前に到着すると、群衆が集まり始めていた。
港から来た商人、好奇心で騒ぐ下町の子供、そして高みから見下ろすように微笑む貴婦人たち。耳に届くのはささやきと嘲り。
「見ろ、あれが…」
「ただの娼婦だろう」
「侯爵の女にしては安っぽい」
唇を噛み、血の味を飲み込む。
顔は上げたまま、決して足取りを乱さない。
高い天井から垂れる旗の下、半円形の議場に入ると、ざわめきはさらに濃くなった。
議員席の間を通されるたび、無数の目が突き刺さる。
議長が木槌を鳴らす。
「被告、シゼット・クロワ。そなたに問う──匿名の告発は事実か?」
答えは胸の中にあった。
だが、その事実を語る権利は、この場には存在しないのだと、すでに悟っていた。
◇◆
声を発する前に、議員の一人が立ち上がった。
「我々は証拠を握っている! 彼女は庶民の生まれであり、侯爵の子を宿している。血統を守るこの国の法をあざ笑う行為だ!」
別の議員が鼻で笑い、言葉を重ねる。
「結局は、権力と金に群がる下卑た女ではないか」
その時──議場の奥、陪席の最前列に座る女がゆっくりと立ち上がった。光沢のある深紅のドレスが、旗の赤よりも鮮やかに目を射る。
視線が絡む。
リゼ・ヴァレンティアは、口元にわずかな笑みを浮かべ、扇子で頬を隠しながら、ほんの一瞬だけ瞳を細めた。その表情は「これは私の舞台よ」と告げていた。
何も言葉を発しない──だが、その沈黙こそが告白だった。
◇◆
視線が離れた先に、ジュリオがいた。
紅い瞳がまっすぐこちらを捉えている──しかし、唇は動かない。
「ジュリオ…」
喉が震え、言葉にならない。
その沈黙は、鋼よりも重く、刃よりも鋭かった。
(なぜ、あなたは何も言わないの…?)
◇◆
議員たちの声が遠くで反響する。
「侯爵の名を守るためにも、速やかに追放すべきだ」
「いや、それでは足りぬ。罪を裁かねば、例が立たぬ」
自分の名が汚泥のように踏みにじられていく。
心の奥で、助産婦の小声と、暖炉の前で重ねた掌の温もりが交互に浮かび、消えた。
腹の奥の小さな命が、ぎゅっと握られたように感じる。
◇◆
議長が判決を告げる前に、後方の扉が開き、甲冑の音が響いた。
衛兵が三人、議場に入ってくる。
「被告シゼット・クロワ、拘束せよ」
短い命令と同時に、両腕が乱暴に掴まれた。議員席の間を引きずられる。民衆席からは野次と笑い声。
「見せしめだ!」
「身の程を知れ!」
その喧騒の中、もう一度だけジュリオを探した。
紅い瞳はまだこちらを見ていた──けれど、その奥は深い湖のように、何も映さなかった。
(ああ、これが…終わりの始まりなのね)
石畳を踏む靴音と、鎖の冷たさだけが、彼女を現実に引き戻した。




