第12話:あなたの子を授かりました
夜明け前から、胸の奥で何かが重く揺れていた。
港町の宿屋の屋根裏部屋。低い天井に染みついた湿気の匂いと、下の階から上がってくる魚の煮汁の香りが、まだ半分眠った頭を締めつける。
目を開けた瞬間、胃の底から突き上げるような吐き気に襲われた。ベッドから転げ落ちるようにして床に膝をつき、かすれた息を吐き出す。
しばらくして吐き気は収まったが、体の芯に残る怠さは抜けない。
部屋の隅にある古びた鏡に近づき、そこに映った自分を見た。頬は痩せ、肌は薄紙のように蒼白い。唇の色さえ褪せて、まるで夜の影をそのまま纏っているかのようだった。
(……何か、おかしい)
ただの疲労ではないと、直感が告げていた。
◇◆
午後、港の外れにある助産婦の小屋を訪ねた。
扉を開けた途端、薬草と干し花の匂いが鼻をくすぐる。棚には瓶詰めの根や種が並び、奥から年配の助産婦が現れた。丸い眼鏡越しの瞳が、じっとこちらを見つめる。
「具合は?」
「……朝、吐き気がします。熱はありません」
助産婦は頷き、無言で手招きすると、熟練の手つきで診察を始めた。脈を取り、腹部に軽く手を当て、耳を澄ますように静かに確かめていく。
やがて助産婦は、柔らかく息をつき、小さな声で告げた。
「……おめでとうございます」
その言葉は、ゆっくりと胸の奥に沈んでいった。
◇◆
「……え?」
自分の声が遠くで響いたように聞こえる。
「お腹に、命が宿っています。まだ小さいですが、確かです」
助産婦の声は淡々としていたが、その瞳には優しい光が宿っていた。
瞬間、胸の奥で何かが破裂した。熱いものが喉を駆け上がり、目の端から零れる。
喜びなのか、恐怖なのか、自分でも判別できない。
──紅い瞳が、すぐ近くにあった。
(ジュリオ……あなたの)
助産婦は何も聞かず、薬草茶の湯気をこちらへ差し出した。
温もりが掌に広がると同時に、その温もりが自分の中に宿っていることを、確かに感じた。
◇◆
帰り道、港の風は湿っていた。
空は灰色で、遠くの水平線が滲む。波止場の上で網を干す漁師たちの声が響き、その中をシゼットは一人歩いた。
胸の奥では、新しい鼓動が自分とは違うリズムで刻まれているような気がした。
宿屋に戻ると、机の上に置いたままの羊皮紙と羽ペンが目に入った。
そこには、迷いながらも書きかけたジュリオ宛ての手紙がある。
「あなたに伝えなければ」──そう思い、書き始めたはずだった。
だが、ペン先を見つめたまま、手は動かなかった。
(このことを知れば、彼はもっと苦しむ)
すでに宮廷から追放された自分。彼は今も政治的圧力に晒されているはずだ。
この知らせは、彼にとって救いではなく、新たな枷になるだろう。
ゆっくりと、手紙を破り、炉の中に落とした。
炎が文字を呑み込み、灰に変えていく。その灰を見つめながら、胸の奥にぽっかりと空いた穴が広がっていくのを感じた。
◇◆
夜、部屋の中は静まり返っていた。
月明かりが窓から細く差し込み、床の埃が銀色に光る。
シゼットはベッドの端に座り、両手をゆっくりと下腹に当てた。そこには、確かな温もりがあった。目には見えないが、存在は否定できない。
「この命だけは……守る」
声は囁きのように小さく、それでいて、刃のように鋭く確かな響きを持っていた。
恐怖も、不安も、孤独も──すべて抱えてでも、この小さな命を守る。それだけは、何があっても譲れない。
外では、遠くの灯台がゆっくりと光を回していた。
その淡い光が、彼女と腹の中の新しい鼓動を、静かに包み込んでいた。




