第11話:書かれた罰
翌朝、青の屋敷の玄関前に、馬車が一台停まっていた。
灰色の空を背景に、その車体はいやに小さく、頼りなく見える。
シゼットの手元には、簡素な木箱が一つ。そこには私物──数冊の本と着替え、祖父から譲られた万年筆が収まっている。
「お世話になりました」
形式的な別れの言葉を口にしても、返ってくるのは短い会釈だけだった。
廊下の奥、侍女たちが小声で何かを囁き、視線を交わす。
その視線は、もう好奇心ではなく、終わった物語に対する淡々とした確認のようだった。
車輪が回り始め、屋敷の門が遠ざかる。
振り返ることはしなかった。振り返れば、確かにあった日々がもう手の届かないところへ行ってしまうと、分かっていたからだ。
◇◆
宿屋は、港町の外れにあった。
潮風と煤煙が混じった空気が、窓から絶え間なく吹き込む。
部屋は屋根裏の一室。低い天井に梁がむき出しで、床板は歩くたびに軋んだ。
小さな机と椅子、ベッド、そして裸電球のように揺れる魔導灯が一つ──それが全てだった。
(……静かだ)
屋敷の喧騒も、舞踏会の音楽も、もうここにはない。
椅子に腰を下ろすと、体の芯まで疲れが染み込んでくる。
昨夜まで自分の世界だったものが、一夜にして別の誰かのものになる。
それは死にも似た感覚だった。
◇◆
三日目の朝、宿の主人が封筒を持ってきた。
封蝋には、見覚えのある紋章──ヴァレンティア家。
胸の奥で、嫌な予感が冷たく広がる。封を切ると、薄い香水の匂いが立ちのぼった。中には、数行だけの整った筆跡。
ごきげんよう、シゼット・クロワ。
舞台はあなたには広すぎたようね。
おかげで、私の退屈は少しだけ紛れました。
どうぞ静かに、そして美しく、幕を下ろしてください。
──リゼ・ヴァレンティア
手紙を持つ手が震えた。
悔しさよりも先に来たのは、空虚さだった。
自分が敗北したことを告げるのに、これほど軽やかで残酷な言葉があるのかと思った。
◇◆
夜になると、屋根裏はさらに冷える。
ベッドに横たわっても眠れず、机の上の古書に手を伸ばす。
ページを開けば、紙の匂いとインクの跡が、かろうじて自分を人間に繋ぎとめてくれる。
文字を追ううち、視界が滲み始めた。
雫のように静かに落ちる涙が、紙の上で小さな染みを作る。その染みは、やがて広がり、文字を曖昧に溶かしていく。
(戻りたい……あの夜に)
◇◆
──唇が触れた瞬間、何かが崩れ、何かが芽吹いた。
それまでの自分を覆っていた冷たい殻が、ひび割れて音もなく落ちていく。
息が混ざり、熱が混ざり、境界線が消えていく感覚。
肩に置かれた手の重みが、なぜか安心を連れてきた。
長い指が頬をなぞり、その軌跡に微かな震えが走る。
名を呼ばれるたび、胸の奥がほどけ、足元の世界がふわりと浮いた。
初めて知る、溶け合うということ。
指先から背中へ、背中から心臓へ、熱が伝わり、身体がゆっくりと開いていく。
痛みではなく、甘く痺れるような衝撃。
そのすべてが、自分のものでもあり、彼のものでもあった。
──あの夜、私は恋に触れただけじゃない。
私は、恋そのものになっていたのだ。ジュリオの紅い瞳、指先の熱、囁かれた名。
それらはもう、手の中にはない。
残っているのは、重く湿った空気と、自分の呼吸だけ。
◇◆
魔導灯がふっと揺れた。
ページの上の影が波のように歪み、その歪みがまるで過去と現在の境界線のように見えた。シゼットは本を抱きしめ、膝を抱えて丸くなった。
夜が更けても、涙は止まらなかった。
それは敗北の涙ではなく、もう帰れない世界への鎮魂歌のようだった。




