第10話:崩れる舞台
壁際の花瓶には夜薔薇が挿され、その香りが、まるで甘い毒のように空気に混じる。
リゼ・ヴァレンティアは、赤いワイングラスを指で回しながら、視線だけを人々の間に滑らせていた。
笑顔を浮かべたまま、彼女は一瞬で全てを理解したらしい──書庫の扉がわずかに開き、そこから現れた二人の姿を見た、その刹那に。
リゼ・ヴァレンティアは、長年の宮廷暮らしで身につけた「匂い」を嗅ぎ取っていた。
それは香水の香りでも、薔薇の匂いでもない──人が恋に落ちたときに纏う、わずかに甘く、そして隠そうとすればするほど濃くなる気配だった。
書庫から出てきた二人を見た瞬間、リゼは笑った。唇だけで、瞳は笑っていない。
「まあ……」とグラスを傾け、赤いワインを舌に転がす。
それは祝杯のようでもあり、毒の試飲のようでもあった。
心の奥で、冷たい水が波紋を描く。
(やはり、あの娘……)
ジュリオに近づく者は珍しくない。だが、彼の目があれほど柔らかく揺れたのを見たのは初めてだった。
面白い──そう思うと同時に、これは潰すべき「芽」だと悟った。
夜会の終盤、彼女は何気ない談笑の中に一粒の種を落とす。
「……そういえば、青の屋敷の教育係が、夜遅くまでご当主と」
笑い声とともに、その種は人々の耳に届き、すぐに根を伸ばし始める。
リゼは帰りの馬車で、薄い笑みを浮かべた。
噂は、放っておけば勝手に熟す。彼女はただ、刈り取る瞬間を待てばよかった。
◇◆
翌朝、宮廷の空気は不穏にざわついていた。
「聞いた? あのクロワ嬢、侯爵様を誘惑しただけじゃないらしい」
「昔の愛人と同じことを繰り返しているんだと」
「リゼ夫人のことか?」
「そう。あの夫人を捨てて小娘に走ったと、今や誰もが知っている」
視線を巡らせれば、議場の隅に座すリゼ・ヴァレンティアの姿がある。
帳簿を持つ侍従と軽やかに言葉を交わしながら、白い扇子で口元を隠し、目だけで人々を翻弄していた。
誰もが彼女の一挙手一投足に影響されている。
シゼットがその瞳と一瞬交わした時、リゼは扇を少し傾けただけだった。
だがそれは、乾杯の仕草以上に雄弁に「勝者の余裕」を物語っていた。
小声で交わされる言葉は、火花のように軽く、しかし確実に燃え広がっていく。
シゼットは回廊を歩くたび、背中に視線が突き刺さるのを感じた。
耳に入るのは、かすかな笑い声と、刺すような沈黙。心臓の鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。
(……もう、始まってしまったのね)
◇◆
昼下がり、ジュリオが私室に呼び寄せた。扉を閉じる音が、やけに重く響く。
「噂が広がっている」
紅い瞳の奥には、焦りとも怒りともつかぬ色が揺れていた。
「私が全て否定する。だから、お前は何も言うな」
その声は強く、しかしどこか震えていた。
「否定しても……止まらない噂もあります」
シゼットの声は、自分でも驚くほど冷静だった。
昨夜の温もりがまだ指先に残っているのに、距離は確実に遠ざかっていく。
◇◆
数日後、青の屋敷の空気はさらに冷え込んだ。
廊下の侍女たちは目を合わせようとせず、食堂では彼女の席が一つだけ離されている。
空席の周りに広がる沈黙は、何よりも雄弁だった。
その夜、執務室でジュリオと向かい合った。
机上には、公印付きの一通の文書が置かれている。
「……これは?」
「宮廷からの命令だ」彼の声は低く、硬い。
「お前との関係を、ここで終わらせろと」
喉の奥が焼けるように熱くなる。
「あなたは……従うのですか」
紅い瞳がわずかに揺れたが、答えは返ってこなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
◇◆
シゼットは立ち上がり、深く頭を下げた。
「分かりました」
声は震えていないのに、膝がわずかに力を失っていた。
部屋を出る直前、振り返ると、ジュリオは机に手をつき、深く項垂れていた。
彼の背中が、これほど遠く見えたことはなかった。
廊下に出ると、外の夜空には雲が広がり、月は隠れていた。
遠くで夜警の足音が響く。
(これは……まだ終わりじゃない。けれど、もう戻れない)
胸の奥で、何かが音もなく崩れ落ちた。
その破片は、夜の闇に吸い込まれていった。




