第1話:転生、そして結晶化
マッチングアプリを開くのは、これで三度目だった。
黒沢雫は、ベッドの上でスマホを握りしめたまま、浅く息をついていた。
画面の光が、部屋の天井に青白く反射している。クーラーの弱い風が鳴って、祖父の古本屋の上階にある六畳の和室は、ひどく静かだった。
──何やってんだろ、わたし。
ため息まじりに親指を滑らせると、「読書」「芸術」「哲学」などのキーワードで絞り込まれたプロフィールが、一覧で表示された。
でも、誰を見ても気持ちが動かない。画面の向こうから伝わってくるのは、ただのテンプレートの自己紹介ばかりだった。
そんなときだった。
ジュリオ・アルディアン(28)/外交職/読書・詩/理想の愛を信じている
ふ、と指が止まる。
プロフィールのトップにある写真は、光と影のあいだに佇む横顔。輪郭がやわらかく、目元は伏せられている。その指先が赤ワインのグラスを持っていた。
たった一枚の写真なのに、既視感があった。
──あれは、あの挿絵に似ている。スタンダールの『赤と黒』。
ジュリアン・ソレルが最初に教会で出会う、あの冷たい手。
「……気のせいだよね」
雫は、スマホを持った手をぐっと握り直した。
恋なんて、したことがない。キスの味も知らない。
それでも、“情熱”だけは信じていた。
震える指で、彼のアイコンをタップする。
ポンッと軽い音がして、マッチング申請の表示が出た。
──その瞬間だった。
バチッという乾いた音が、スマホと指のあいだに走った。
わずかな静電気かと思ったが、次の瞬間には、全身が重く、熱くなった。
「……え、ちょ……」
言葉が声にならない。
頭の奥で、何かが焦げるような匂い。
スマホの液晶が急に明滅し、画面が真っ白になった。
視界の縁が、じわじわと黒く滲んでくる。
千切れた充電ケーブルが肌に当たっている。感電? まさか。
けれど、指が動かない。瞼も重い。心臓の鼓動だけが大きく響く。
「やば、ま……って……」
言葉が途中で途切れた。
◇◆
視界に、ノイズのような“文字”が浮かぶ。
知らない言語。読めないのに、“読めてしまう”ような、錯覚。
──名前を、言って。
音ではなく、内側に響く声だった。
風の音、機械の雑音、心臓の鼓動、それらが混ざったような、名状しがたい“問い”。
「……しず、く……?」
違う。あなたのほんとうの名前を。
その声と同時に、胸の奥がひび割れたような感覚。
脳が回転していく。世界が横倒しになる。
鏡が割れるように、無数の“わたし”が視界に現れては、砕ける。
一人だけ、そこに立っている。眼鏡もない、髪は風に揺れ、白いドレスをまとった自分。
──その口が、こう動いた。
「……シゼット・クロワ」
次の瞬間、音が消えた。
空が、青かった。
どこまでも透き通る空が、目の前に広がっていた。
雫──いや、シゼットは、背中に草の感触を感じながら、ゆっくりと瞼を開いた。
鼻をくすぐる花の香り。柔らかく吹く風。
「……夢?」
いや、これは現実だった。これが、現実になってしまった。
身体が軽い。髪が肩に触れる感覚が違う。
肌がなめらかすぎる。視界が鮮明すぎる。
眼鏡がない。けれど、すべてがはっきりと見える。
ゆっくりと上体を起こす。
見知らぬ草原。青々とした空。小川のせせらぎ。
──そして、遠くから足音がする。
「シゼット様……! ご無事ですか!」
走ってきたのは、耳の長い少女だった。
金色の髪、薄い水色の瞳。その顔は、美しく整いすぎていて、まるで絵画の中の人物のよう。
「……あなたは?」
少女は泣きそうな顔で膝をつき、手を握る。
「どうか、ご無事で……女神が……あなたを……」
言葉の意味が、なぜか理解できた。
だけど、現実味がなかった。
いや──ある意味、現実よりもリアルだった。
シゼットは、草原に手をつき、深く息を吸い込む。
心の奥から、確信がにじみ出る。
ここは、あの世ではない。だけど、この世でもない。
ここで、私は生きる。新しい名で。新しい身体で。
そして、スタンダールの“恋愛論”のような恋を、きっと私はする。けれどそれは、幸福ではない。
結晶化、熱狂、そして──。その全てを、きっと、私は辿るのだろう。
だけど、もう逃げない。恋のなかに、生きてみせる。