もう会わないはずの人
地平線の向こうから、わずかに光が差し込み始めた頃。夏彦はようやく目的地に辿り着いた。
花壇の睡蓮の朝露に反射した駅舎は、遠近感が失われ、現実よりもいくらか壮麗に見えた。
夏彦はおもむろに携帯を取り出し、『花島駅』と書かれた色褪せた看板がぶら下がっただけの簡素な駅舎を写真に収める。次にここを訪れるのは何年後になるだろうか。地元民でも滅多に利用しないこの駅が、都会への唯一の扉だった。
錆びついた時計が、間もなく予定の時刻を指す。夏彦は振り返った。時折、車が横切るばかりで人の気配はない。
そろそろ行かなければ。夏彦の全てを詰め込んだスーツケース。持ち手を軽く握り直し、薄暗い構内に踏み出した。
改札の横に備え付けられたパイプ椅子。そこに座った背中の丸まった老駅員に切符を渡す手が、かすかに震えた。老人は鈍い動きで切符を見つめ、数秒後顔を上げる。夏彦の顔を確認すると、切符に切れ目を入れぶっきらぼうに返した。
軽い会釈をして、ホームに出る。すっかり変色したプラスチックのベンチに腰掛け、時間を待った。
凍える息で両手を擦り合わせ、足元に目をやる。ふと、これが自分以外の誰かだったなら違っていただろうか、と夏彦は気になった。
例えば、これが松永だったなら。クラスの連中の大半は、喜んで見送りに来たはずだ。目には涙なんか浮かべて、「いつでも帰ってきてね」なんて温かい言葉で送りだされる。松永は、夢を叶える情熱と希望に満ち溢れて、笑顔で旅立っていく。そこにはきっと鈴の姿もあって――。
そこまで考えて、夏彦は頭を振った。
最後だから感傷的になってしまっているのかもしれない。第一、クラスメイトに見送られて上京したら、挫折して帰ってきたとき地獄じゃないか。数年後、誰かが何かのタイミングで僕の話題をあげるかもしれない。そこで初めて、「実は上京したらしい」と噂になる程度が丁度いいんだ、と夏彦は自分を納得させた。
花島駅には、一時間に一本しか電車が来ない。沿線上にあるから停車するだけで、この駅を日常的に利用する人を夏彦は知らなかった。膝を抱えて蹲っていると、世界に一人のように思え、何故だか貧乏ゆすりが止まらなかった。
無限にも思える静寂を破ったのは、電車が発する耳障りな金属音ではなかった。
「夏彦!」
どこか現実味のない今よりも、余程慣れ親しんだ声。天然水のように透き通っていて、菓子のように甘い。脳裏で飽きる程流していた声に、夏彦は反射的に目を閉じた。
駆け寄ってくる足音が止み、代わりに全力疾走後のような荒い息遣いが聞こえた。
「間に合った、よね? 良かった。本当に」
この声が、誰のものか確認するまでもなかった。
乾いた空気を可能な限り吸い込み、夏彦はゆっくりと目を開ける。
徐々にピントが合っていく視界の中、立っていたのは、頬を火照らせ肩を上下させる鈴だった。
通学時、いつも着ていたベージュのコートに、夏彦がクリスマスプレゼントとしてあげた赤いマフラーを巻いている。指先は白く悴んでいたが、瞳には確かな光が宿っているように見えた。
「……どうしてここに?」
自分でも驚くほど低い声が出た。鈴は、少し怯んだように見えたが、すぐに口角を上げた。
「幼馴染なんだから。東京の大学に行くんだし、見送らない方がおかしいよ」
何もおかしくはない。自然だ。
「出発が今日だって、誰にも教えてないはずだけど」
夏彦は、視線を手元の携帯に逸らした。電車が来るまで残り五分弱。心なしか、吹きつける風が強くなったように感じる。
「夏彦のお母さんが教えてくれたんだよ。私がいないと心配だからって」
鈴はいつも、毎日のように遊んでいた子供時代から、何も変わらぬ態度で接してくれる。
ひび割れた石材を目でなぞりながら、「私たちもう十八なのにね」とやけに明るい鈴の声を聞いていた。
僕らが最後に会ったのだって数週間前。高二になってからは、親しく会話したことなど殆どなかっただろうに。速まりかけた鼓動を、呼吸と共に整えた。
嫌だった――とは言わない。このまま旅立ってしまえば、一生、どこかにしこりを抱えたまま生きていただろう。だが、この感情を何と言葉にすればいいのか。夏彦には、見当もつかなかった。
視界の端に、真新しい黒のスーツケースが映った。上京に必要な資金の中から、大枚をはたいて購入した最大サイズのそれ。中には、季節ごと最低限の衣類二日分と洗面用具。緩衝材に包まれた、魂にも等しいノートパソコンには、誰にも見せたことのない掌編小説が詰まっていた。
明日からは新しい生活が始まる。もうこの町に帰ってくることはないのだ、と思うと途端に肩の力が抜けた。
「こんな早朝に見送りなんて、松永に知られたら怒られるんじゃないか?」
先ほどより軽薄に放った夏彦の言葉に、鈴は眉間に皺を寄せた。
「なんで今、陽介の名前が出るの?」
これ以上口にしてはいけないと分かっているのに。夏彦は鼻を鳴らした。
「幼馴染とはいえ、彼女が他の男の見送りに行ってたら心配するだろ」
「なんで怒ってるのかが分からないんだよ」
首を振り声を荒げた鈴に一瞬、思考が止まる。
怒っている? 僕が?
何故怒っていると思われたのか。僕が怒る理由なんてどこにもないはずだ。ない、はずなのに。口を開きかけて、生唾と一緒に反論を飲み込んだ。
「夏彦は変わったよね。いつからか、私を見ると目を逸らすようになった。私が人前で話しかけるのを嫌って、友達の前では幼馴染であることを隠したがる」
心当たりはある。思春期の夏彦にとって、異性の幼馴染である鈴と一緒にいることは周囲からの視線が気になって仕方なかった。鈴は続ける。
「人前だけじゃない。二人の帰り道ですら、前のように名前で呼んでくれなくなった。篠宮さんって呼ばれることに、どれだけ疎外感を感じてたか気付いてた?」
青さ未熟さ故の間違い。夏彦は視線を落とし、こめかみを抑えた。
「夏彦にとっての私はなに? 言葉にしてくれなきゃ分からないよ」
僕は、鈴が離れていったように感じていた。成長と共に、徐々に女性らしくなり、異性の友達が増えていく彼女。鈴が僕との繋がりを軽視しているように思えて、苛立っていた。
だけど違ったのだ。思えば、どれだけ喧嘩をしても、鈴は翌日には必ず好物のコーラグミを買って家を訪ねてきた。未だに正式名称の分からない英語のそれを、僕たちは、プリントされたアメリカの国旗からアメグミと呼んでいたんだっけ。
本当は分かっていた。
いつだって離れていたのは僕の方で、鈴はいつだって歩み寄ろうとしてくれていた。今だって現実から目を逸らすため、また鈴から逃げ出そうとしている。
言葉にして、形あるものにするのを避けて。待ってばかりの、どうしようもない馬鹿は僕だった。
夏彦を嘲笑うかのように、東京行き鈍行列車の進入音が響く。レールと車輪が擦れる音は、別れの時間を冷たく告げていた。
鈴には、支えてくれるひとがいる。面倒見が良く、他人を気遣える人間だ。僕よりも余程上手く生きていけるだろう。
これからの人生で、もう会わない人だ。何を言おうが、僕の人生に影響はない。最後ぐらい意地を張らなくていいんじゃないか、と夏彦は思った。
夏彦は震える膝を抑え、立ち上がった。
「最後に……言わなくちゃならないことがある」
最後、と口にすると、一気に今までの思い出が頭を駆け巡った。
全て、明日にはなかったことになる。でも今更、引き返すことなどできなかった。
「なに?」
夏彦の雰囲気に、鈴もすっと表情を引き締める。
「鈴のこと、嫌いだった時期なんて一度もない」
僕にできる最大限の告白だった。
震えながらも意思の籠った言葉に、呆気に取られたような鈴の表情。ルースのような薄茶色の瞳に映る夏彦は、どこか清々しい顔をしていた。
目を合わせて言葉を交わせたのはいつ振りだろう。当たり前にできていたことが、出来なくなってしまっていたことに苦笑する。
鈴は下を向き、深く大きく息を吐いた。数秒俯いた後、首元のマフラーを撫でる。停車した電車が発車するまで、二十秒にも満たない。
顔を上げた鈴は、笑顔だった。最初のように、どこか取り繕ったようなものじゃない。気を遣ったはにかみでもない。小学生の頃のような、裏表を感じない無邪気な微笑み。
「またね!」
夏彦は言葉を返せなかった。
返事の代わりに右手を挙げて電車に乗り込んだ。
もう会わない人だ。言うべきことはちゃんと言えた。胸にしこりは残っていない。閉じたドアの向こうでは、きっと手を振ってくれているだろう。
それなのに夏彦は振り向くことができなかった。振り向けば、全て崩れる気がした。一歩を踏み出すために、見ないことを選んだ。
内から溢れ出した想いと後悔は、電車が止まるまで止むことはなかった。