一、戦乱の予感(7)
湿ったにおいで満ちた簡素な石階段を、みっつの足音が下りていく。
それらは暗い静寂の中で、気味悪い程によく響いた。
「隠し通路にしては、随分広いようだな」
人ひとりが漸く入れるような狭い場所を想像していたイルクは、忙しく視線を巡らせながら感心したよう漏らす。
「ええ。恐らく有事には脱出や物資の移動などにも使っていたのでしょう。
手入れをしていないところを見ると、長く正規の用途では使用されていないようですね」
あちこちびっしりと苔が生えた石階段は、慎重に進まないと転んでしまいそうだ。
「正規の用途……か」
王子ウェルティクスも知らなかったこの場所。
ティフォンがここを『見つけた』のだと――そうシャガルは話していた。
その会話からも察するに、長く忘れられていた通路であった可能性は高い。
思案を巡らせていると、やがて水の流れる音がとくとくと耳に届く。
「地下水路……ですか。ということは、この道は……」
「どうした?ウェル殿」
「いえ。……進めば判ることです。先を急ぎましょう」
水の流れが招く方向へ進むと、松明で得た視界に小さな門が映る。
慎重に門を開くと、そこはフォルシアの街外れだった。
「確かに、ここならあまり人は立ち寄りませんね」
辺りに人影がないことを確かめながら、三人は水路を脱出し、門を閉める。
「……ウェル殿、」
抜けていく苦い風に、金糸の髪がふわり、たゆたう。
碧玉の双眸に王宮の輪郭が揺れるのを見れば、イルクは続く言葉を持たず立ちすくんでしまう。
心配そうに己へと注がれる視線に気づくと、ふたつの碧は彼を安心させるように笑ってみせた。
――大丈夫、とでも言いたげに。
ち、と小さく舌を打つ音。
ファングは居心地が悪そうにかつかつと靴を鳴らしながら、街並みを睨んだ。
「それで、これからどうするんだ?
いつまでもここにはいられねぇだろ」
「うむ。ウェル殿、兄君を探すと言っておられたが……
何か手掛かりはあるのか?」
イルクの問いに、残念ながら――と首を横に振るウェルティクス。
「それがあったのなら、王宮を空けることにはならなかったでしょうね」
「つまり、一年捜し回って手掛かりなしって訳か。
死んでんじゃねぇのか?」
「――スペリオル!!」
なんてことを、と非難するイルク。しかしウェルティクスは静かに首を振った。
「仰る通り、兄上の御無事を証明できるものは何もありません。しかし――
只の願望ではなく……兄上ならば大丈夫だという確信が、私にはあります」
あまりにはっきりと告げる若者の姿に、はぁ、と片眉を上げるファング。
心配そうにしていたイルクも、存外元気そうな主の姿に胸を撫で下ろした。
「ふむ。兄の存在とは大きいものなのだな」
――絶対の信頼、或いは血の繋がりが為せる予感のようなものだろうか。
胸が温まり表情を緩める彼に、ウェルティクスは笑いかける。
「兄上は、殺してもそうそう死ぬような方ではありませんよ。
好い加減しぶといですから」
「……………………。」
「……………………。」
あまりに爽やかに言い放つ若者に、
二人は……そのまま絶句して、顔を見合わせた。
「…………おい」
「う、うむ」
ぐいとイルクの首根っこを掴み、ファングは小声でこぼす。
「……俺が言うのもなんだが……散々な言われようだな」
「う、うむ、信頼の現われであろう。……おそらく」
フォローのつもりだったのかイルクはこくこく首を振るが、こちらも表情は引き攣ったままである。
「どうかされましたか?お二人とも」
「「いや、なんでも」」
にっこり尋ねるウェルティクスに、二人はぴったりハモって答える。
……なんだかんだと、息は合うようだ。
「まぁ、情報がねぇってんじゃ仕方ねぇ。
パニッシャーのアジトにでも行ってみるか」
予想外の人物からの、予想外の提案に、ウェルティクスは耳を疑う。
「え……?」
イルクもまた、驚きに目を見開いた。
「スペリオル……!?」
「闇雲に探すよりは、可能性はあんだろ。
それに失踪した英雄どもの行方も、俺達の情報網なら掴めてるかも知れねぇ」
「失踪した英雄……ラグナとクリスのことですか」
「……スペリオルの目的は後者のようだな」
がっくり。
まさかファングが他人の為に動くなど――と心を打たれたイルクの感動は、じつに一瞬で打ち砕かれた。
否、逆に安堵したというべきか。
「スペリオルは、随分とその二人に拘っておられるようだ」
「あぁ?当たり前だろうが。
俺は虚仮脅しじゃねぇ、本当に強い奴と戦いたいだけだ」
呆れているイルクにファングは鼻白み、拳を握りしめた。
「確かに……宛てもなく捜し回るのは合理的ではありませんね。
兄上の所在も、ラグナたちの安否も……今のままでは雲を掴むような話」
ウェルティクスは腕を組み、左手を口元に遣って思案する。
ファングの性格からして、騙し打ちのような真似をすることはないだろう。
以前に一度、彼と剣を交えた際――加勢しようとした部下を恫喝したくらいだ。
「このような事態というのに……相変わらずであったな」
はー、と、大きな溜息が地におちる。
「役得って言いやがれ。
――さぁ、どうする?王子サン」
ファングはくいと顎をしゃくり、返事を催促する。
「仰ることはご尤もですが、しかし……宜しいのですか?」
「はッ、別にアンタをアジトの中に連れ込むわけじゃねぇ。
それに俺の目的はあの二人の情報で、第二王子はついでだ」
――現段階で利害は一致する、それは間違いないのだけれど。
ややあって、顔をあげるウェルティクス。金髪がさらりと肩におちた。
「……判りました。それならば、お願いします」
「よし、決まりだ。行くとしようぜ」
答えを聞くなり、ファングは踵を返し歩き出す。
「しかし、スペリオルが協力してくれるとは意外であった。
己が決闘の為に騎士たちの行方を追うだけであれば、俺やウェル殿を伴う必要もあるまい」
「別にたいした理由はねぇよ。
俺は、気に入ったモンにちょっかい出されんのが嫌ぇなだけだ」
肩越しに振りかえり、僅か笑み。それからまた背を向け歩きだす。
歩調が早足になったのは、彼なりに極まり悪さを感じたのだろう。
――『気に入ったモン』。
イルクは首を傾げてから、ちらとウェルティクスに視線を向けた。
「ウェル殿は、変わった人物を手懐ける才能があるようだな」
「……貴方がそれを言うのですか?」
「おい、何してやがる。置いていくぞ」
そんな声を交わしながら、三つの影は小さな丘陵へと吸い込まれていく。
鉛色の雲の中に、僅かな陽光が差し込んでいた。
――進路は、北。
遠く高い山々が聳え、黒く重い雲が啼くノルン方面へと――