一、戦乱の予感(5)
乾いた風が、異物を拒むようにフォーレーン王城を吹き荒ぶ。
目指す場所――窓を見上げ、男は忌々しげに顔を顰めた。
(ちっ、前より警備が厳重になってたのは計算外だ)
ついと下を見れば、平時では考えられない数の兵士が見回りをしている。王都を守る搭には、見覚えのない見張り窓も増えていた。
指と靴の爪先についた鉤爪だけを頼りに、男は城壁をよじ登っていた。
命綱はない。
吹き上げる風に身体を煽られ、慌てて指先に力を込めた。
風が収まると、浅く息を吐く。
男は幾度かフォーレーン王城を訪れて――もとい、潜入しているが、ここまでの厳戒態勢は見たことがない。
強化されているのは、外からの侵入経路となりうる場所の警備。
――恐らく、直近に何者かが城内へ忍び込んだのだろう。
(ち、何処のどいつか知らねぇが……迷惑な話だ。
忍び込むのは勝手だけどな、忍び込むなら見つかるんじゃねぇよ)
男はひとつ毒づいて、再び垂直な壁を登り始める。
この王宮に現れた招かれざる『客人』が、パニッシャーの潜むノルン方面に向かったことなど、男には知る由もない。
(さて――アイツらがどんな顔するか楽しみだ)
徐々に大きく視界に映る窓を睨み、その口元に笑みが浮かぶ。
叩きつける風にも構わず、男は一直線に上昇していった。
剣雄と呼び起された面影も薄れ。
眠り続けているテセウス王の肌からは、赤みと艶が失われていた。
うなされる声を聞きながら。浮かぶ額の汗を拭う金髪の女性。
彼女――レイチェルの面差しにもまた、長引く看病疲れが滲む。
「陛下、新しい布をお持ちしますわね」
そう告げて一礼し、彼女は立ち上がる。
レイチェルはそうして、目を覚まさないテセウスに日々声をかけ続けた。
……無駄な努力と嘲笑う者、実子の王位を狙っての小賢しい行動と誹る者もあったけれど。
彼女はそんな噂話には耳を貸さず、また片時も国王から離れることはなかった。
こん、こんっ。
ノックの音が聞こえ、彼女は部屋の扉へ向かう。
「……あら??」
こんこんこんっ。
再びノック音。
しかしそれは、前ではなくその逆――背中の方から聞こえた。
「…………窓?」
訝しみながらも、窓へ近づくレイチェル。
彼女の部下には幾人かの密偵もいる。ひょっとしたら、彼らからの報告かもしれない。
そう思い、彼女は窓の鍵を外した。
次の瞬間、
窓は勢いよく――蹴開けられた。
「――きゃ、」
「ったく、早く開けろよ。こっちは足場が……ぁん?
誰だ、アンタ?」
現われたのは、部下の密偵ではなく見知らぬ男。
背丈はレイチェルより拳ひとつぶん低い。深い森の色をしたマントを纏った男の、鋭利な刃物にも似た鋭い双眸がこちらを睨んでいた。
「……まあ。」
レイチェルはそこに佇んだまま、ぽかんと男の姿を見ている。
男はつかつかと彼女に歩み寄ると、無遠慮にその顔を覗き込む。
「…………似てんなぁ。
そうか、アンタがあの王子さんの母親か――ん?」
ひく、と男の鼻が動く。
一度鼻を指でおさえ、何やら床を見つめ考え込むと、その足は奥でベッドに横たわるテセウスの方へと歩き出した。
「???貴方は……」
レイチェルは声を落とし、突然の闖入者を見つめている。
敵意は感じない。自分や国王に危害を加える意思はなさそうだ。
――あの子のことを知っているのですか?と。
尋ねようとして、先に口を開いたのは男の方だった。
「王サマの容態も、アンタのその顔も……毒か?」
え――、と。
目を丸くしたレイチェル。そこに、
今度は本来すべき方向から、ノックの音が聞こえた。
こん、こっ。
「今日はお客様が多い日ですわね……」
ちょっと困ったような顔をして振り向くレイチェルの視界を、何かが遮った。
マントを翻し、男は勝手にドアノブに手をかけ――
そして、
扉を開け放つ。
「――っ、え?」
「な――ッ!?」
驚きの声を上げるウェルティクスとイルク。
その服を掴み、男は二人を部屋へ引きずり込む。そして、そのままばたんと扉を閉めた。
床に叩きつけられ転がり込んだイルクは、上半身だけを男へ向け、
「な、何故スペリオルがこちらに――」
「くくくッ……よぉ。
久し振りだな。王子さん、イルク」
非難の声もどこ吹く風、男――ファングは揚々と挨拶などしてみせる。
「……シャガルを持ち場に戻しておいたのは、正解だったようですね」
頭を抱え、は扉を振り返るウェルティクス。
「ウェル……。くすくす、随分と面白いお友達がいらっしゃるのね」
「え、ええ母上……お陰様で」
暢気に笑う母の言葉に表情を引き攣らせ、なんとか顔を上げ。
金髪の若者は、いまいち締まらない返答を返した。
レイチェルの声にはっとして、イルクは身を仰け反らせる。
「ス、スペリオル、こちらへ!」
「ああ?」
真っ青になってファングの手を引くイルク。
怪訝そうに首を傾ける男を部屋の隅へ引っ張り、耳打ちした。
「一体、どうやってこの部屋へ?外は見張りの兵がいたはず……」
「ンなの、そこの窓からに決まってんだろうが」
顎をしゃくって窓を示す。
イルクは思わず声を殺すのも忘れ、叫んでいた。
「ま、まま、窓!!?
ここは王城、ましてやウェル殿の母君の部屋に、ま、窓から侵入するなどという奇行……
なんと破廉恥な!!」
「……………………」
「まぁ」
他人事のように口元に手をあてるレイチェル。
ファングはといえば、沈痛そうな面持ちでこめかみを引き攣らせながら、
「~~……お、おい。ちっと待てイルク」
「?」
額を手でおさえたまま、半眼でイルクを見上げる。
「確かに俺は、どっちかっていやぁ年上の女の方が好みだがな……」
つい、と、切れ長の目が片方だけレイチェルを見遣り、
「俺は女の掌で転がされる趣味はねぇんだよ」
掌を上へ向け、何か転がすように揺らすジェスチャーをとる。
「……む、む???」
顔をくしゃりとさせて考え込むイルク。
「どうやらイルクには難し過ぎたようですね」
「ちッ」
「む?……???」
イルクはきょろきょろと周囲の顔を見回し、腕を組んで考え込む。
こほ、とちいさく咳払いを入れ、ウェルティクスはファングヘ問いかけた。
「――して、ここへは何故?
危険を冒してまで入り込む程の理由があったのではありませんか」
「その前に訊きてぇコトがある」
じろ、と、強い眼差しがウェルティクスを貫いた。
促すように首をこくんと揺すり、青年は男の言葉を待つ。
「ラグナ=フレイシスとクラリス=トラスフォードが処刑されたってのは本当か?」
「――な……ッ!?」
思わずよろめくウェルティクス。
代わりに質問に答えたのは、レイチェルだった。
「そういう報告を受けていますわ」
「……………………」
淡と告げる母に視線を向けたまま、細身の体躯が硬直する。
レイチェルは含んだ様子で一度頷き、こう続けた。
「しかし、二人の遺体は確認していません」
「!では……」
いっとき暗雲に支配された表情が、ふたたび光明を取り戻す。
「ソイツらは生きてんのか……く、くくくッ」
「……スペリオル……」
くつくつ喉で笑みを漏らすファングに、冷やかなイルクの視線が注がれていた。
(まさかその為だけに、このような場所へ来たのではあるまいな……?)
疑惑に眩暈を感じつつも、ウェルティクスやレイチェルから『来客』を引き離すイルク。
それから、ファングが二人の会話を邪魔せぬよう、その間に割り込み仁王立ちした。
「ラグナとクリスは……無実の罪を着せられ国外へ追放されたか、上手く逃げ出したと考えるべきでしょうね。
あの二人のこと、そうそう命をとらせはしないはず」
「そうですね……どうやら、捜し者が増えてしまったようです」
困ったように呟くが、その表情は明るい。
「捜し者?」
鸚鵡返しに尋ねるレイチェルに、ウェルティクスは再び顔を上げる。
「母上、ティフォン兄上の事なのですが」
「……………………」
「兄上は――信頼できる臣下の手引きにより、今も何処かで生きておられます」
しん、と。
場に一瞬の静寂がともった。
「ティフォンが……そう。
牢から忽然と消えたと聞いて驚きましたが、そういうことでしたの」
「母上。兄上は無実です」
訴えるよう、畳みかける声。
「嫌疑のかけられた日、兄上はファティマ様の許に行っておられたのです」
「まあ。ティフォンも男の子ですわね」
口元に手を当てて、くすくすと笑うレイチェル。
それから穏やかな物腰を崩さぬまま、我が子を見つめた。
「ウェル、私は一度だってティフォンを疑ってはいません。
訓練中にうっかり刺殺したという話ならまだしも、毒殺など……
あの子にそんな回りくどい真似ができるはずありませんもの」
「……母子とは凄いものだな……」
以前ウェルティクスがこぼした言葉とまったく同じそれを口にするレイチェル。
二人をしげしげと眺め、イルクはやけに関心してしまった。
『?』
「い、いや、なんでも……」
同時に振り向き首を傾ける二人。イルクはついと視線を逸らした。
そんなイルクの様子に、やはり顔を見合わせ小首を傾げる母子。
「――捜しに行くのですね、ウェル」
レイチェルの物言いは、問いかけではなく確信を帯びていた。
「はい。兄上もですが、ラグナやクリスのことも気がかりです。
そして――今、フォーレーンで何が起きようとしているのかも」
ウェルの言葉に、ゆっくりと首肯するレイチェル。
何か言葉をかけようとしたのだろう、彼女が口を開きかけた刹那――
「悪いが、そろそろ時間切れみたいだぜ。
――このフロアの匂いが変わりやがった」
「スペリオル、それはどういう……?」
「王宮も安全とは言えないってコトだ。
……そうだろ?王国参謀さんよ」
「……………………」
沈黙。それがすべての答えだった。
「母上――」
「ウェル、行きなさい」
先程までの柔和な物腰は、声からも表情からも消えていた。
レイチェルは真っ直ぐにウェルティクスたちを見据え、凛然と告げる。
「貴方は、その眼で知らなくてはなりません。
――ここで起こっている、総てを」
「それは……」
「おい、悠長に話してる時間はねぇぞ。
ここを戦場にしたくなかったら、さっさと出ねぇとな」
先に扉へと手をかけ、肩越しに声を飛ばすファング。
そのようですね――と振り向かず返し、ウェルティクスは唇を噛んだ。
「……母上。
帰国の挨拶も儘ならぬ内に旅立つ無礼をお赦しください」
「次に戻ったときは、お茶会をしましょう。
ティフォンの大好きなスコーンをたくさん焼いて」
「……、はい。きっと兄上は喜ばれますね。母上の焼くスコーンが大好物ですから」
思い起こすのは、既に懐かしいものとなった光景。
焼き菓子が大好きなティフォンとラグナが、口をスコーンで一杯にして最後のひとつを奪い合って。
いつまでも子供のようにじゃれ合う二人を殴り、それを取り上げるのがクリスの役目だった。
そんな情景を、いつも見ていた。当たり前に続くと思っていた。
己は――もう一度、あれを取り戻せるのだろうか。
否。
取り戻す。そう誓ったのだから。
ばさり。
ウェルティクスはレイチェルとその奥にいるであろうテセウスに一礼し、扉へと急ぐ。
まごつく巨漢に、行きましょう――と声をかけて。
「奥には父上が休まれておられます。早々に出発しましょう」
「……レイチェル様は、よろしいのか?」
「母上は……父上がいる限り、何があってもあそこから動きませんよ」
片目を瞑り、それから一度だけ振り返り。
「それでは母上、行って参ります。
必ず兄上を連れて――フォルシアへ戻ります!」
「ええ。……待っているわ」
そうして。
みっつの影が、慌ただしく絨毯をはしり――扉の向こうへ溶けた。
「何があろうと、必ず……わたくしが陛下をお守りするわ。
だから――行ってらっしゃい、ウェル」
閉ざされた扉を、レイチェルは祈るように眺めていた。