一、戦乱の予感(4)
「――しかし。
兄上の頼み事は、武器の扱いを教えるだけでは止まりませんでしたね」
「ははは、確かに。
私が見張り番なのを良いことに、城を抜け出す際、しばしば共犯に使われましたな」
困った顔で笑いながらも、シャガルの瞳はとても穏やかで。
その色はまるで、弟を想う兄にも似ていた。
「あの頃より私は……王家への忠誠以上に、ティフォン様とウェルティクス様、お二人にこそ。
総てを賭してお仕えたいと……心に決めておりました」
「……シャガル」
「ときに、ウェルティクス様」
歳の離れた弟を見守るような優しい色が瞳から消える。声のトーンも一段、低くなっていた。
周囲の気配を伺うシャガルの仕草に、ウェルティクスもイルクも、何かを察しただろう。
王子はちいさく頷き、次を促す。
「そのティフォン様について、……お伝えせねばならないことがあります」
「……………………」
静かに耳を傾けるウェルティクス。イルクはそんな主の心持ちを案じつつも、成り行きを見守る。
「ティフォン様が一年前、投獄された事はご存知ですね?」
「ええ。父上の毒殺を図ったとか。
喧嘩や決闘での事故で殺してしまった――などという話ならまだしも、毒殺など……」
(……「喧嘩や決闘で殺してしまう」可能性はあるのか……?)
イルクはぎょっとして思わず突っ込みそうになったが、心の中だけに仕舞っておくことにした。
沈痛な面持ちのまま、シャガルの話は続く。
「無論、濡れ衣です。
容疑が掛けられる原因となったその日……ティフォン様は、城には居られなかったのですから。
厨房に忍び込むティフォン様の姿など、誰も目撃できるはずがないのです」
「城に居られなかった……?」
「はい。あの日、ティフォン様は城を抜け出し、城下町へ出ておいででした」
ちら、と周囲に視線を巡らせてから、シャガルは声を抑えて告げる。
「城下町へ?……それで戻ったところを投獄されたのですね」
恐らく、『いつものように』シャガルが城を抜け出す手引きをしたのだろう。
王子としては困った癖だが、今はそんな話をする場ではない。
「私は、真実を話そうとしたのです。あの方の無実を証明できるのは私だけですから。
しかし、ティフォン様にそれだけはやめてくれと――ッ」
胸の前で組んだシャガルの指が、がくがくと震え出す。
「止めた……?
シャガル。兄上は城下町で――」
口止めをする程の理由が、そこにあるのだろう。
ウェルティクスは声を押し殺し、こわごわと尋ねた。
「あの日、ティフォン様は……城下へ降り、大聖堂へ向かわれていました」
――大聖堂。
「!!!……ということは、まさか、」
「ええ。
お忍びで礼拝にいらしていた、ファティマ公女に……お逢いする為です」
――やはり、と。
ウェルティクスの唇が、思わず呟いていた。
フォーレーンの王子と、同盟関係にある隣国アクディア公国の姫。
一見すれば両国にとって非常に喜ばしいことに思えるが、実情は複雑だった。
国土が広く資源豊かなフォーレーン王国では、貿易の自由度が高いこともあり、各地を治める諸侯の力が強くなり過ぎていた。
力をつけ過ぎた諸侯は、徐々に国政にも口出しをするようになる。
そんな中、王位継承権を持つ王子は三名。しかも全員が異母兄弟。
本人の意向に関係なく、王子たちは諸侯にとって、権力争いの道具となってしまっていた。
第二王子ティフォンは平民の母を持つため、非常に危うい立場にある。
彼がファティマ公女と恋仲にあることは、情報通の間では噂になっている。
しかし。
平民の子である自分との交際が知れれば彼女に――ひいてはアクディア公国に害が及ぶことを憂慮し、ティフォン自身はそのことをひた隠しにしていたのだ。
ひとつ、溜息がおちて。
「どうせ兄上のこと。
ファティマ様にご迷惑がかかるとか、貴方の命が危ないとか……
どうせ、そんな寝言を申したのでしょう?」
「……は、はい……仰るとおりです。
も、申し訳ありません。ウェルティクス様」
ぺこぺこと頭を下げる兵士の背中越し。
イルクは、常に見ない主の姿に戸惑いながら、呆然と眺めているしかできなかった。
(ね、寝言……??)
語り口こそ丁寧だが、その言葉尻はいつになく刺々しい。序でに、顔がまったく笑っていないのだ。
「貴方が謝ることではありませんよ。
あの兄上の考えそうなことです。そういう方なのです」
こくこく、しきりに頷いて。そう畳み掛ける。
――怒っているというより、拗ねているのだ。
しかしそんな心の機微など、シャガルはともかく、イルクには知る由もないことで。
「……はぁ。
では、兄上を牢から出したのも?」
盛大な溜息を部屋一杯に満たしてから、金髪の若者は一段、声を落とし尋ねる。
「私です。
……そうすることしか、できなかったのです……ッ」
どさり。
悔しさに顔をぐっしゃりと歪め、ついに泣き崩れるシャガル。
抑えた嗚咽を聞きながら。
ウェルティクスは、そうですか――と、短く呟いた。
かたん。
涙で霞むシャガルの視界を、金色が横切る。
――それは、
「シャガル、兄上を助けてくださったこと――感謝します」
「ウェルティクス様……!そんな、勿体無いお言葉です」
深々と頭を下げる主の姿だった。シャガルは手を大きく振って、また頭を下げる。
「しかし兄上も、一人で全てを背負い込もうとするのですから。
――困ったものですね」
「うむ。……良く似ておられるな」
しん、と。僅かな時間、空気が停止する。
イルクに向き直り、にっこりと笑顔を称えるウェルティクス。
「…………。どういう意味ですか?イルク」
「い、いや、……なんでもない」
ぎぎぎ、と油の切れた金属のような音を立てて、イルクはその笑顔から顔を逸らした。
さして気にした様子もなく、金髪の若者はそのまま扉へと進んでいく。
顔をぐっしょりと濡らした兵士へ、一度だけ向き直り、
「話してくれて、有難う――シャガル。
やっと、喉のつかえがとれたような気がします」
扉に手をかけたまま、そう呟いていた。
――シャガルにも、間近にいるはずのイルクにも、その表情を見せぬままで。
「ウェルティクス様……」
「そろそろ母上の許に参りましょう。母上にもお伝えせねばなりません」
「は、ははっ!」
シャガルは騒々しい鎧の音をがちゃつかせ、敬礼ひとつ残し、廊下へと飛び出す。
ウェルティクスもイルクもその後へ続き、不気味な程に静かな廊下を進んでいった。