一、戦乱の予感(3)
フォーレーン王宮にある、兵士修練場の一角。
肉刺だらけの手に血が滲むのも構わず、修練に励む若い兵士がひとり。
掛け声に伴い、槍が風を裂き、うぉんと嘶く。
その繰り返しを阻んだのは、まだ幼さの残る少年の呼びかけだった。
「お前がシャガルか?」
足元に長く伸びる影。その先に、高貴な身なりの少年が佇んでいる。
としのころなら一一、二歳くらいだろうか。
薄暗い中でも爛々と輝く、勝気そうな鋭い瞳が印象的だ。
「…………?」
名前を呼ばれるも、その少年には見覚えがない。
はて、と首を傾げるシャガルに、少年は痺れを切らし再度問いかけた。
「どうなんだよ!違うのか!?」
「そ、そうですが……」
何処かの、貴族の子息だろうか。
シャガルは戸惑いながらも、礼を失することのないよう返事を選ぶ。
が、そんな彼の思惑を余所に、少年はぱあっと表情を輝かせた。
「そっか、やっぱりな!
ウェルが言ってた通り、頭硬そうなヤツだな!お前」
「な、なッ――!?」
少年の発した言葉に、思わずひっくり返りそうになる。
(ウェ、ウェルって……?ウェルティクス様のことか?
しかし、そんなはずは……)
シャガルの名を知る者で、そんな名前をしている人物といったら一人しかいない。
――フォーレーン王国第三王子、ウェルティクス。
だが、一介の貴族が彼を呼び捨てになどできるはずがない。
本人が許したとしても、周囲の大人がそうそう許しはしないだろう。
とはいえ、シャガルの頭にそれ以外の人物は全く浮かばない。
(い、一体、この少年は……??)
混乱し、眩暈を覚えるシャガルの耳に、今度は今度は覚えのある声が聞こえた。
「兄上……!
はぁ、はぁ、は……やはり、こちらでしたかっ」
「ん?お、ウェル!ウェルじゃないか!」
慌てた様子で駆けてくるのは、王子ウェルティクスその人。
(――……『兄上』?)
「兄上、ダメですよ。シャガルの邪魔をしては」
くいくいと少年の袖を引き、まるで母親のように窘めるウェルティクス。
「邪魔って何だよ!俺はまだ何もしてないぞ!?」
そんな弟――だろうか――に対して、少年は不満を露にした。
(昨日といい今日といい……一体、どうなっているんだ??
私は夢でも見ているのか?)
目の前で繰り広げられる光景。それはあまりに現実味のないもので。
シャガルは白昼夢でも見せられているような感覚に陥り、知らず頬をつねっていた。
「……痛い」
奇妙な夢、では、ない……らしい。
目の前で繰り広げられている光景に、シャガルは白昼夢でも見ているような感覚に陥った。
『王子殿下』――下っ端兵士の自分などが、容易にお目通りを願える相手ではない。
そんな雲の上の存在から声をかけられただけでも奇跡だというのに、昨日の今日で自分を尋ねてくるなどと。
しかも、今度はそのウェルティクス王子が『兄上』と呼ぶ方まで一緒に。
(ということは、この少年は――)
さぁ、と血の気が引くのがシャガル自身にも判った。
ウェルティクス王子の兄で、自分が顔を知らない人物はたった一人しかいない。
ジーク王子と直接面識があるわけではないが、姿絵を何度も拝している。
つまり。
公の場に一度も姿を現したことのない――ティフォン第二王子。
「シャガル、ごめんなさい!
私が昨日、兄上に貴方のことを話したばかりにご迷惑を……」
シャガルが青ざめているのを別の意味に受け取ったようで、ぺこぺこと頭を下げるウェルティクス。
「だから迷惑ってなんだよ!めーわくって!!
俺、まだ何もしてないだろ!なぁ!?」
詰め寄ってくる二人の王子。
シャガルは卒倒しそうな意識を必死で留め、もう一度、その幼い面差しを交互に見遣った。
ごくりと唾を飲み干し、そして、
「……お、畏れながら……もしや、こちらのお方は……
ティ、ティフォン第二王子殿下で、いら、いらっしゃいます、……か?」
安酒でも煽ったあとのように、まるで呂律が回らない。
「ああ、ティフォンは俺だけど?」
きょとり。
それがどうしたという顔で、少年は答える。
その瞬間、
~~ずざざざざざざっっっ!!!
「し、ししし知らぬこととはいえ、ぶ、無礼の数々……
もももも申し訳御座いませんでしたッッ!!!!」
シャガルはその場に平伏し、土に頭を擦り付けるように何度も頭を下げた。
そんな彼の反応に、顔を見合わせる王子たち。
暫く呆然としていたティフォンだったが、その意味を理解すると、わなわなと震え出す。
その小さな手は、次の瞬間にはシャガルの首根っこを掴み上げていた。
がッ!!!
「ふざけんな――ッッッ!!!
俺は、初めて会った奴にいきなり頭下げられるほど偉くなった覚えはねぇッ!!」
「あ、兄上っ!」
恫喝する兄の姿。
その背を引っ張り、彼をシャガルから引き剥がそうとするウェルティクス。
しかしそれも叶わず、するりと手は離れてしまう。
「王子サマってのはそんなに偉いのか!?
ただのガキだろ!?大人がヘコヘコ頭下げてんじゃねぇよッッ!!!」
「兄上!!!
シャガルは王家に忠誠を誓っているのですよ、彼を困らせないで下さいっ!」
今度こそ、シャガルを掴んでいたティフォンの手を引き離し、ウェルは二人の間に割って入る。
どちらの王子も、既に息が上がっていた。
ティフォンは、不貞腐れたように地面の石ころを蹴飛ばす。
「だってよ!……これじゃ頼み事もできやしねぇ」
切れ味のよさそうな褐色の双眸が、揺らいだように見えた。
「…………え?」
「平民の血が入ってたって王子は王子だからな。
腹ん中でどう思ってようが、みんな俺の言う事は聞くだろ。でも、俺は……」
――『俺』は。
そこで、一度区切って。
「俺は――そんなの嬉しかねぇ!!!」
叫んでいた。
灼けるような色の大きな双眸に、一杯に涙を溜めて。
「あに、うえ……」
どう言ったものか困惑するウェルティクス。
その前にすたすたと歩いていき、シャガルは、
身を屈ませ、真っ直ぐにティフォンと同じ高さへ視線を合わせて――首肯してみせた。
「……判りました。
それではティフォン様、頼みと言うのを聞かせて頂けますか?」
シャガルの声は、穏やかにティフォンの耳へ届く。
視線は合わせられずにいた。
暫し眉間に皺を寄せ、考え込んでいたが――悩んだ末、彼はこう切り出す。
「――俺に、武器の扱い方を教えて欲しいんだ」
「武器を……ですか?何故?」
軽く首を傾けてみせるシャガル。ティフォンは、悔しそうに唇を噛んだ。
「……俺さ。
ガキで、弱くて、なんの力もなかったから……大好きな母ちゃん、守れなかったんだ。
いつも守られてたのに。俺は、……守れなかった」
「…………」
幼い声が、徐々に掠れていくのが痛ましい。
シャガルは口を挟むことなく、彼の言葉に静かに聞き入っていた。
「だから強くなって、家族とか、兄弟とか、友達とか。
そういう大事なもん、自分で守りたいんだよ!……今度こそ」
「兄上…………」
自分を見つめるウェルティクスの視線にはっとして、頭をがしがしと掻くティフォン。
そこで頬が濡れていることに気づき、ごしごしと顔じゅうを袖で擦った。
それからこそこそと、片目を瞑り耳打ちをする。
――「親父には内緒な」、と。
じわり。
幼い二人の様子を見ていたシャガルの胸に、熱いものがこみ上げる。
(繰り返しの毎日で……そういえば、忘れていたな。
この道を選んだ頃の、あの気持ちを)
槍と盾を手に市民を守る兵士の姿。
それを眩しく見つめていた、幼い日の自分を思い起こす。
あの頃はまだ幼くて、それでも、手の届くものくらいは守りたいとそう願っていた。
そして今。――己は兵士となったのだ。
「ティフォン様……
――判りました。私で宜しければ、お引き受けします」
「それは、俺が王子だからか?」
いいえ――と、シャガルはゆっくり首を横に振って。
「私も、家族や大切な人たちを守る為に王国兵士へ志願しました。
今のティフォン様と同じ思いです。
……ならば同じ志を持つもの同士、互いに切磋琢磨できると思ったのです」
揺らぎなく、真っ直ぐに互いへ伸びる、少年と青年の眼差し。
「そ、っか。……そういうことなら。
よろしくな、シャガル!」
「はい。
宜しくお願いします。――ティフォン様」
太陽のようなティフォンの笑顔に、シャガルは眩しそうに目を細めた。




