三、白の神女(19)
ボロボロになりながら、鬱蒼とした森を往く男がひとり。
木々の切れ間から覗く濃紺だけが、更ける夜を伝えていた。
「……ッは、はぁ……は、」
ど、と膝が落ちる音。服のあちこちはほつれ、褐色の染みができている。
歩いた足跡に沿って、赤黒い雫が糸のように道を示していた。
だむっ!
男は歯を軋ませ、大地に拳を突き立てる。
「――くそッ!!!
それもこれもすべて、あの……」
――『あの日』から、歯車が狂い始めた。
あの日、男はノルン南東部――ガンドロフ伯爵領にいた。
男の記憶に、豊穣祭の賑わいが蘇る。
不穏な噂を受け、男は用心棒の一員として伯爵に雇われた。
闇に潜んだ暗殺者を発見し、何事もなく任務は遂行され、男は伯爵の執り成しで身を立てる――はずだった。
手に吸いつくよう馴染む剣、それも希少な魔法剣を新調し、
安物のなまくら剣とお別れし、
万全の状態で意気揚々と任務へ挑み――
しかし、男は暗殺者相手に不覚をとり、返り討ちに遭ってしまう。
……ずきり。
あの日、暗殺者の術士から受けた傷が。痛みを訴えた。
「あの、パニッシャーが……あの忌々しい小娘……
……セリオ=ド=ヴァレフォールめが……ッ!!!」
――そうだ。
あれからというもの、散々だ。
任務にはしくじり、出世話は反故にされ、路銀は枯渇し、こうして宛てもなく森を彷徨っている。
「この私が、このような目に遭うのも、すべて……すべてあの小娘の――ッ、」
怒りだけが、男の足を前へ――生へと進ませていた。
ざくざくざくざく、
「ん?」
草を切る足音が、やけに速く進んでいく。
「なん、だ……?」
耳をそばだて、木の陰に潜んでいると、幾つか話し声が届いた。
「神女様をお守りするんだ……!」
「ここは我々が命に代えても食い止めます。
お逃げください、神女様!」
ざくざくと草を蹴る音に次いで、遠く金属が弾ける音。
「神女?いったい――
ぐあ……ッ!!!」
鮮血が飛び散り、染みの色を更に鮮やかにする。
男が振り向くと、そこには野犬の群れが眼光を光らせていた。
「ちっ、血のにおいを感じ取ったか……」
剣を両手で握り、構えを正そうとする。しかし、
「――、ッく、」
かたかたかた、から、ん。
指先に力が入らない。
波打った刀身が特徴的な剣――フランベルジュが一振り、木の根元を転がった。
しまった、と男が感じたときには、もう遅い。
野犬の咆哮。
全身を縛る激痛。
男の意識が宵闇の森に溶ける、
――刹那、
その視界に映ったのは――圧倒的な、白、だった。
白、白、――白。
目覚めた男の視界に、限りない白がひろがる。
気を失ったその瞬間と、同じように。
「……、ぐ」
上半身を起こそうとして、眩暈に頭をおさえる。
「まだ、あまり動かないほうがいい。
あれだけ血を流していたのですから」
(…………女の、声?)
ぼやけていた視界が徐々にクリアになっていく。
そこではじめて、男はその白が女性の形をしていることに気づいた。
ヒカリを織り込んだような純白のローブは、シスターの法衣によく似ている。
「死後の国……ではなさそうだな」
肩越しに見る女性の横顔。
雪を梳いたような白い髪は、時折窓へ吹き込む風にふわり揺らめく。陶器のような白皙に両の瞳は神秘的な黄金の色。
(あの白い髪といい、先程聞こえた『神女様』という声といい……
この女、もしや――)
「薬湯を。」
「あ、……ああ、」
反射的に、差し出された杯を受け取る。
ふわり、湯気の香気が心地好い。
やや警戒するが、彼女から敵意らしきものは感じない。
それに、川も池もない獣道を彷徨い続けて喉はカラカラだった。
こくん。熱い液体を体内へ流し込む。
「――ここは?貴様は何者だ?」
明らかに高貴な身なりの白い女性を睨め上げ、無遠慮に尋ねる。
「ここはただの山小屋。昔は樵が住んでいたのでしょう。
そして、私は――世界を『視る』者」
気分を害した様子もなく、女性は淡々と返す。
「では、貴様が『神女』エルサイスか……はッ、」
予測は、確信に変わった。
かつての聖戦で英雄神を助けた白き神の末裔は、代々白い髪を持つという。
神の息女――『神女』エルサイス本人に、間違いないだろう。
「……何故、この私を助けた?」
「――貴方が、生きようとしていたから」
声は、至極当然のことのように告げる。
「生きようと……していた、か。ふん、そうかもしれぬ」
確かに、ここで果ててたまるものかと思った。
――任務で一戦交えた黒衣の娘、自分を追い返した雇い主、かつて自分を嗤った者たちの顔、顔、顔。
――あの者どもを、見返すまでは死ねないと。そう思った。
(神の救いが降りるような動機ではないが――な)
ぎり、と歯を軋ませる男を、黄金色の双眸は静かに見下ろすのみ。
「神が人を罰することはありません。どんな思想を持ち、どんな行いをしようと。
罰を与えるのは常に人でしょう――」
「……………………」
さらり、白糸がこぼれる。男は憮然とした面持ちのまま彼女を睨んでいる。
「かもしれぬ、な。
神とやらは罰も与えなければ救いもしないわけだ」
吐き捨てる。
――神官が見れば激昂するであろうな、などと頭の片隅で思いながら。
エルサイスは男の言い草にやはり怒るでも嘆くでもなく、薬湯の鍋をくるくるとかき回している。
それから、ふと視線は立て掛けられていた剣へと向けられた。
「変わった剣を、持っているのですね。魔剣など」
「……商人から買い上げた。
手柄を立てるはずだったからな、全財産を費やしてしまったが」
思い出して苛立ったのだろう、神経質にかたかたと指でテーブルを鳴らしている。
「まさに、人を殺める為にあるような剣……
こんなに強い瘴気――それに邪気を纏った剣は、久々に見た気がします」
「瘴気だと……?」
魔法を帯びた剣、ということは聞き及んでいる。
――あの小娘が用いていた邪法のようなものか?
「かつての持ち主は、余程無念だったのでしょう。
世を去る際に禁呪を用い、己が恨みを魔力に変え剣に封じ込めた――」
かたん。
「な、な、な、ななななな」
かた、かた、かたかたかたかたた、
「気というのは同質のものを呼び寄せます。
歓喜は歓喜を集め、憤怒は憤怒を集め、怨嗟は――怨嗟を集める。
数多の無念が、この剣に渦巻き――、……?」
ふと、見遣る。
いつの間にか男は布団を頭まで被り、かたかたと震えていた。
怪談が苦手なようである。
「恨みを晴らすには適した武器なのでしょう。
しかしながら、人を斬らねば己が身が瘴気に満たされていく」
「そ、……それで、どうなると、いうのだね」
男の声は裏返っていた。エルサイスは暖炉に薪をくべると、
「――負の感情を引き寄せるようになります。
有態に言えば、『不幸になる』と申しましょうか」
「そんなモノただの呪いではないかッッッッ!!!!!」
がばっっっ!!!!
思わず起き上がった男の絶叫が、狭い小屋に響く。
「ええ、そうとも呼びます」
「な……なん、だと……」
けろりとした女性とは対照的に、男の顔色はどんどん青ざめていく。
「――と、いうのか……?
私は……全財産を賭して、呪いの剣を買ったと……」
愕然とした。次に彼を襲ったのは、絶望だった。