二、足跡(15)
闇は既に西の地平線へと潜り、東からは光が溢れ出す。
建ち並ぶ水車小屋が、朱の色彩に滲む。そんな、静かな朝だった。
村一帯を見渡せる小高い丘の上に、ファングは立っていた。
「――ち」
忌々しく吐き捨て、髪を掻き毟る。
――苛々する。
鏡に映る面差しが、記憶の中にあるそれと繋がったからだ。
鏡の向こうからこちらを見ていた男は――少年の頃、憎悪と共に見上げた顔に、余りに似ていたから。
「くそ……ッ」
だむっっっ!!!
行き場のない苛立ちに、男は傍にあった老木を蹴飛ばしていた。
何度振り払っても、忌々しい記憶はねっとりと絡みつき、男を離そうとはしない。
逃げても逃げても纏わりつく父親の影から――それでも男は逃げ続けていた。
ところが、
「――ここにいたのですね」
「……、あ?」
刹那。
世界が、ひらける。
あんなに執拗に纏わりついていた、狂気じみた混沌が。
金糸のヒカリに溶け――いともあっさりと霧散した。
澄んだ声、たったひとつで。
ファングはそのまま、焦点の定まらない瞳で声の主を眺めた。
「……なんで、」
男の戸惑った様子に気づいていないのか、或いは意図的に気付かぬふりをしてか。
声の主――ウェルティクスは、つかつかとファングの傍まで歩み寄り、こう言った。
「手を。出してください」
「な……?」
――『手』。何のことか判らず首を傾げつつも、右手を相手に差し出す。
男の指には、赤いすじがひとつ。
「硝子を割ったときに切ったのでしょう。
小さな傷でも、そのままにしておくと化膿することがありますから」
じ、と。見つめる紺碧の眼差しはとても優しくて、何故か懐かしい。
――「藁を刈ったときに切ったのね。
傷をそのままにしてはダメって、いつも言ってるでしょう?」
記憶が、勝手に引き出しを開ける。あの頃と、現在の状況が重なったからだ。
ファングはいつになく慌てて、ばっと手を引っ込めた。
「な――、
……こんくらい、舐めときゃ治る」
――「な――こんくらい舐めときゃ治る」
はた、と。
同じ台詞を吐いた自分に気付き、心底頭を抱える。
「なりません」
ぴしゃり。
言い放つと、ウェルティクスの細い指は薬草へと伸び、それを彼の傷口へと摺り込んだ。
「……ッ!?」
――何しやがる、と、言おうとして。
「こうすれば直ぐに、快くなりますから」
ふわり、咲いた穏やかな笑顔に――男は完全に出鼻を挫かれた格好となる。
抵抗を諦めたファングは、慣れた手つきで傷の手当てをする金髪の若者を、ただ見ているしかできなかった。
――『綺麗な色の髪ですね』
穏やかな声。しかし、これは。
(――違う、リフェナの声じゃ……ねえ)
はっとして、顔を上げる。視線が、かち合う。
「おい。今……なんつった」
「え、私ですか??」
「他に誰がいんだよ」
記憶の中に迷い込んでしまったような、錯覚。戸惑いから、ファングの語気が荒くなる。
怪訝な顔をしながらも、ウェルティクスは先程の言葉を、
「綺麗な色の髪ですね」
もう一度、ファングへ投げかけた。
「……綺麗じゃねぇよ。俺は――嫌いだ」
(――ガキの頃と同じ台詞しか出てきやしねぇのかよ。くそ、)
ふいと拗ねたように、顔を逸らす。
見ていられなくなったのだ。その金髪と碧眼が、『彼女』を思い起こさせるから。
記憶から逃れようとするファング。
しかし、穏やかな記憶に惹きつけられたまま、逃れることができずにいた。
「そうですか。でも、私は好きですよ。
――果てしなくひろがる、草原の色」
「――やめろ、」
……、ぱすん。
耐えきれず、手を振り払う。
「え、あの……?」
「やめろ」
声が震えている。
ファングの只ならぬ様子に、ウェルティクスはその顔を覗き込もうとして、
ど、っ。
突き飛ばされ、細身の体躯が宙に浮く。
「――ッ、は、はぁ……ッ」
「……ファング?」
「――、な……俺を、見るな――ッ」
背中に衝撃を感じ、同時に男の顔を見上げて、
――そこに、
数滴、雨もないのに滴がおちるのを見た。
さく。
さく、さく、さく。
顔の前におちた金髪をひと束、後ろへ払いのけて。
臆すことなく、ウェルティクスはファングの腕を掴み、
……きゅ。
傷口に、薬草と布を巻きつけた。
「……………………」
「傷が塞がるまで、外しては駄目ですよ。
ああそれと、割った硝子はイルクが修復してくれています」
手短に告げて、ふわり背を向ける。金のヒカリが朝陽を受け――散る。
「……おい?」
「村の周囲を見回ってきます。昨夜は嵐で出歩けませんでしたから」
立ち止まることもなく歩いていくウェルティクスの背中を、暫くぼんやりと見ていたファングだったが、
「ち、」
ちいさく舌を打って、……やがて、その後に続いた。